第22話 バナジスライト
雪上に転がった熊の首に、シグルドが歩み寄った。雪に膝をつけ、見開いたままだった熊の瞳を閉じてやる。その動作は丁寧で、奪った命への敬意が感じられた。
それから彼は立ち上がって、セティを見た。
「セティ、頼む」
「うん」
セティがやって来て透視を始める。
何をしているのか分からず、エリンは戸惑った。
「ここだ。ここから真っ直ぐ下、十三インチ」
セティが熊の頭を指差した。
シグルドが指示通りの場所に刃を入れる。刃はもう魔剣ではなく、彼本来の念動力<サイコキネシス>に戻っていた。
熊の頭蓋が割れて、脳があらわになる。まだ湯気を立てる脳の中に、赤く光る物があった。
「白獣になったばかりとしては、かなりの大きさだ」
シグルドが取り出したのは、赤い結晶石。それは、白獣の精神波とそっくりな色をしていた。赤の波動を、空間を満たす結晶体をそのまま固めたような、赤い宝石。
形は方形。奇妙に人工的な雰囲気の正方形である。
「バナジスライト。白獣の脳に必ず入っている宝石だよ」
セティが言った。
その結晶体は指先に乗る程度の小さなもの。熊の巨体と不釣り合いな小さな石だった。
「小さく見えるでしょ。でも、これでも大きい方なんだ。この前の猪の白獣は、もう少し大きかったよ。あれは俺が今まで見た中でも、最大級に近かった」
セティはシグルドからバナジスライトを受け取って、荷物から取り出した小箱に入れた。
「これを集めて、ヴァルキリー様に献上するんだ。白獣を狩るのと、バナジスライトを回収するのとが、俺たちエインヘリヤルの重要な任務なんだよ」
小さい仕切りがいくつも作られた小箱の中には、複数個の赤い宝石が納められていた。砂粒ほどに小さいものから、熊のものより一回り大きいものまで。仕切りの中で一つずつ、寂しく並んで、かすかな波を放っていた。
宝石は雪明かりを受けて、きらきらと輝く。幾通りも変わる複雑な屈折率の果てに、光すら逃さず閉じ込めて。
「バナジスライトは、存在そのものを含めて秘匿事項だ。白獣を狩る場に一般人を入れないのも、このため」
「……何故ですか」
シグルドの言葉に、エリンは問うた。
「確かに白獣は危険な生き物です。でも、その赤い宝石を隠さねばならないのは、どうして? それが放つ気配は、白獣の精神波そのものです。そんなものが脳に入っているなんて。
恐らくそれは、白獣の病に深く関係している。病をよく調べれば、治療法が見つかるかもしれないのに。
その宝石を、バナジスライトを隠すということは、病を隠すのと同じです!」
「秘匿は主神オーディンの勅命だ。我らが疑問を持つ余地はない」
シグルドの返答はそっけない。エリンは食い下がった。
「それに、どうしてその宝石を集めるのですか。何か使い道があるんですか?」
「使い道」
セティが呟いた。手に持った箱をそっと揺らして、カラカラと石が鳴る音を聞いている。
シグルドはやはり、感情が感じられない声で言った。
「さて、知らん。我らエインヘリヤルが受けた命令は、バナジスライトを献上するところまで。アースガルドの神々とオーディン様が、それをどう扱うか知りようがないし、知る必要もない」
「そんな……」
エリンは振り返ってベルタを見た。けれど彼女もまた、首を振るばかり。
ラーシュの精神感応<テレパシー>も沈黙している。
神の戦士を自称するエインヘリヤルは、オーディンに絶対の忠誠を捧げている。
エリンはそれを知っている。彼らはしばしば、神の正義という言葉を口に出す。どんな時でも主神は正しいと信じているのだろう。
それでもエリンは違和感を感じた。シグルドもベティも、ラーシュも、本当はもっと思慮深くて心優しい人のはずだ。実際、シグルドは熊の命に敬意を払ってくれた。
それが白獣の病は気にもとめず、思考を停止している。
セティだけはいくらかの迷いがあるようだが……。
シグルドは熊の胴体の横の雪を、念動力で切り出した。深く掘って土の地面が露出する。
半ば凍っている土をさらに四角く切り取って、熊の胴体と首を埋めた。
土をかぶせて、血を受けた雪をかぶせて。
鮮血の痕跡を含めて、辺りはあっという間に元通りになってしまった。
春の雪解けを迎えれば、地中の虫と微生物たちが目を覚ます。彼らは熊の死骸を食べて、新しい季節の糧とするだろう。
そうして熊は、本当の意味で大地に還るだろう。
それは、本来の自然のあり方。命の循環である。
あの熊は今度こそ正しい道に立ち戻って、いつか新しい命として生まれ変わるのかもしれない。その時は病になどかからず、幸せに命を全うして欲しいとエリンは願った。
けれどもエリンは思う。
病の象徴である、あの赤い結晶体。光を乱反射して閉じ込める宝石。
あんなものを何に使うのだろう。
病の研究のため? けれどラーシュは、治療法は存在しないと言い切っていた。
もしも神々が、大いなる力をもって病の克服を望むのであれば、神の下僕であるエインヘリヤルがあんな言い方はしないだろう。
だが、何か利用価値があるから集めているはず。それは何だろう……?
「帰ろう。狩人の遺体を埋葬してやらねば」
シグルドが言って、彼らは歩き始めた。
雪の勢いが強くなりつつあった。
最後にもう一度、エリンは振り返る。
戦闘の跡も、熊の血の色も、首と胴とに分かたれた巨体も、全ては雪の下。
全てを覆い隠して、雪は降り続ける。
+++
どこか遠い場所で、一人の人物が窓の外を眺めていた。
空の色は紫。どこまでも澄んだ色。成層圏であるゆえに塵芥も水蒸気も少なく、空はこのような色になる。
眼下には雲海。たなびく雲が集まって形を作っている。その切れ目からは、はるか地上の街が見えた。
あまりに遠いために玩具めいて見える、人間たちの街。ミッドガルド。
「魔剣グラム、か。地底の黒竜ファフニールを殺した剣。また懐かしい道具を使ったものだ」
その人物は軽く首をかしげた。身の丈ほどもある銀の髪が揺れて、さざなみのような波紋を描いた。
「しかしまさか第三世代、適性者が存在していたとは。ロキめ、念入りな偽装を施してまで、どういうつもりでアレを使ったのやら。
まあ、いい。――シュリーダ」
「はい。ここに」
部屋の片隅に女性が現れた。美しい金髪を長く伸ばして、顔には目元だけの仮面をつけている。つややかな唇から漏れる声は、彼女の隠された美貌を際立たせていた。
そして特筆すべきは、彼女の背から生える美しい翼である。純白の大鳥のような翼は、今は折りたたまれているが、天を駆ける際は大きく広げて強く風を打つのだろう。
「第三世代の適性者が現れた。ただちに収穫せよ。業腹なことに、ロキめの偽装で対象を確定はできない。疑われる候補者は――」
人物が窓から振り向く。彼、もしくは彼女もまた、仮面をかぶっていた。その意匠は、狼を思わせるもの。
人物が軽く手をかざすと、空中に薄く光る文字列と絵姿が現れた。
「第二小隊隊員、ジークフリード。第七小隊隊長、ブリュンヒルデ。第九小隊隊長、シグルド。それに第十二小隊隊員、シグムンド。これらが適性者の候補である」
「かしこまりました。ただちに姉妹たちを派遣し、彼らを召し上げましょう」
「うむ。たとえ適性者でなくとも、これらはそろそろ収穫して良い頃合いだ。選定の手間をかけるだけ無駄というもの。
ただし、今回の件は恐らくロキが絡んでいる。対象をすぐには見つけられぬやもしれん。偽装と秘匿は、奴の得意とするところだからな」
仮面の下で暗い笑いが上がった。
シリューダは頭を垂れたまま、動かない。微動だにしない。
「さあ行け、ヴァルキリーよ。行って適性者を収穫し、我が力へと変換せよ」
「仰せのままに、オーディン様」
シリューダの背の翼が広げられ、次の瞬間に彼女の姿が消える。瞬間移動<テレポーテーション>の能力だった。
オーディンは再度、窓に向き直る。
紫の空が広がる先の先、圏界面のあわいを見つめながら、長い間をそのままで過ごしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます