第21話 黒い魔剣
熊の黒いモヤに触れて、エリンは気づいた。
――能力が増している。
妨害能力波<ジャミング>はより複雑さを増して、強度そのものも上がっていた。
エリンは胸元のペンダントを握り締めた。
最初の猪の白獣の時は、無我夢中だった。子どもたちを守りたい、その気持だけで壁を作り出した。
けれど今のエリンは、能力者として最初の一歩を既に踏み出した。
だからペンダントの――エリンの身体に宿る記憶と技術の使い方を、僅かながらも理解している。
『妨害能力波に接触。システム・ミーミルに偽装接続の上、解析を開始します』
エリンの頭の中に声が響いた。彼女自身の声、彼女自身の力だった。
ペンダントが熱を帯びる。目で見なくとも、色が真紅へと変化しているのが分かる。
『昨日の妨害能力波のデータと併せ、妨害チャンネルを推定。
推定チャンネル候補、þurs、kaun、およびbjarkan』
エリンの脳裏にそれぞれの文字が浮かび上がるように閃いた。
『試行。þurs、kaun確定。強度二十。bjarkan、再試行。確定。強度十』
『妨害チャンネル外、試行。チャンネルnauð 、貫通を確認』
おびただしい数の文字が列となって、エリンの脳を、全身を流れていく。
右目の奥が熱い。知識と技術の奔流は、右目から来ているような錯覚すら覚える。
『チャンネルnauðを選択、実行』
「……シグルドさん」
肉体の細胞一つ一つに力を巡らせながら、エリンは言った。
「私が導きます。貴方の力で、あの子の苦しみを終わらせてあげて」
「エリン……?」
戸惑うシグルドに構わず、エリンは彼の手を取った。
『チャンネルnauð実行。システム・ミーミルのライブラリより神話「ファフニール」をダウンロードします。黒の魔竜と地底の黄金。星の光の墓場……適性確認……適合』
熊の妨害能力波を貫通して致命傷を与えるには、今のシグルドでは力不足だった。
もう一段、強い力がいる。
ただの念動力ではない、より深くて強い力が。
『念動力能力者シグルドに疑似魔剣・怒れる黒き刃<グラム>を付与』
エリンの体中の細胞からの声に呼応して、シグルドの手に黒い剣が現れた。
禍々しいほどの漆黒の刀身に映るのは、深い怒りと血液の色。伝説の中に生きる竜を屠り血を啜ったと言われる魔剣、その複製<レプリカ>。銘を『怒れる黒き刃<グラム>』。
「これは!?」
驚くシグルドの傍らで、ベルタとセティも息を呑んでいる。
特にセティは目を見開いて、透視<クレアボヤンス>で魔剣を見つめていた。
彼には視えた。闇よりも深い漆黒、その刃に宿る無数の美しい結晶体。そして結晶一つずつが内包する小さな宇宙を。あまりにも深くて広い構造に、彼は目眩を感じる。構造だけでは読み取れない何かを感じる。
「シグルドさん。その剣の使い方は分かりますね?」
エリンが言う。高次の能力を行使しているさなかと思えない、静かな口調で。
「……ああ。形は違うが、これは俺の力だ。多くの白獣を殺した念動力<サイコキネシス>。形を与えれば、このような姿になるか――」
「では、どうかお願いします。
そしてできれば、ただ殺すのではなく。あの子に憐れみと、追悼を」
「……分かった」
シグルドは手の中の剣を握り締める。それは彼の手によく馴染んだ。まるで最初から彼自身のものだったように。
手袋の下で、オーディンの指輪が熱を帯びて輝いている。この世に再び姿を現した魔剣と共鳴するように。
『チャンネルnauðにて精神感応<テレパシー>共有を実行』
ざあ、と音を立ててエインヘリヤルたちの視界が晴れる。少し先にいる熊の姿があらわになった。
鈍く光る灰色の空の下、雪明かりの乱反射する光の中で、黒いモヤを吹き散らされた姿で佇んでいる。
熊は毛皮全てを白く染めていた。もうなりかけではなく、完全に白獣と化していた。
シグルドが雪を蹴る。肉体の力だけではない、念動力をも込めた渾身の疾走だった。
殺気に気づいた熊が、全身の毛を放射状に逆立てる。ぶわっと体表が波打った。
妨害能力波を使って、それなのに効果が出ないことに驚いている。
最早意味をなさない黒いモヤを蹴散らして、シグルドが走る。
絶望的な危機にあって、熊はそれでも諦めない。苦しみの中で生きるのを、やめようとしない。
後脚で立ち上がって爪を振り上げ、シグルドを叩き落とそうとする。
剛腕が音を立てて振り下ろされる。通常の人間や獣であれば、一撃で肉塊になったであろう威力。
それをシグルドは受け止めた。黒い魔剣で、怒りの名を冠する刃で。
爪と刃との間に火花が散る。
回避できたに関わらず、あえて受けてみせた。白獣の、熊の生きようともがく力を。
白い獣と黒い刃。真逆の色をまとって、彼らは対峙する。
間近で熊の紅い瞳を見つめながら、シグルドが言った。
「今ならば、エリンの言った意味が分かる。熊よ、お前は確かに、病に苦しんでいたのだな。
けれどお前は、人間を喰らいすぎた。人だけではない、自然の法則からも外れた。許すわけにはいかない。
その命でもって、お前の行いを贖え――!!」
黒の一閃。
絶叫が上がって、すぐに途切れた。
熊の太い首が黒刃で落とされたのだ。
その切り口は鮮やかなまでに滑らか。一瞬遅れて鮮血が噴水のように吹き出、雪を赤く染めた。
熊の頭はごろごろと雪の上を転がり、やがて止まる。
半開きになった口からだらりと舌が垂れ下がる。その赤い舌の上に、ちらちらと舞う雪が一片、舞い降りた。
それはまるでこの冬山が、飢えて渇いた獣に一滴の甘露を与えたようにも見えた。
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