第51話 ロキとフレイ


 エレベーターは長い上昇を続けた後に、ようやく止まった。

 窓の外では既に雲海は足元にあって、まるで本物の海のようにゆるやかな波紋を描いている。

 ロキ、エリン、セティの三人が降りた先には、がらんとした空間が広がっていた。

 円形の空間の壁、高い天井まで届く大きな扉の手前に人影があった。


「ようこそアースガルドへ。本来の手順を踏まないでここまで来たのは、きみたちが初めてだよ」


 金の髪をした細身の青年だった。彼もロキと同じく、獣を思わせる仮面を被っている。

 ロキが敵意をあらわにして言った。


「もったいぶるな、フレイよ。我々はオーディンに用がある。そこをどけ」


「そう言われても。その娘がつまり、きみの言う所の切り札なんだろう? 確かによく考えたものだ。このやり方であれば、オーディン様に刃が届くかもしれない」


 警戒しているような口調でありながら、フレイはくすくすと笑っている。


「ただ、今のままじゃおもちゃの包丁で巨象に立ち向かうようなものだよ。オーディン様とその小娘の力じゃ、差がありすぎる。ロキ、きみが王の相手をして、隙を見て彼女がとどめを刺すつもりだったんだろうが」


 フレイは一歩を踏み出した。無機質とも有機質とも取れない材質の床が揺れて、影が濃くなる。

 バサバサと鳥の羽ばたきが聞こえる。フレイの足元の影から次々とヴァルキリーが這い出て、室内に舞った。


「そうはさせるか。ロキ、きみはここで僕たちと遊ぶんだ。オーディン様が小娘を殺すまでね」


「エエ、遊ビマショウ」


 ヴァルキリーの一人が言う。外界活動を想定していない、生まれたばかりの彼女はひどく拙い口調で、目元を覆う仮面もない。何も知らない赤子のような瞳をしている。


「ロキ、一緒ニイヨウ。昔ミタイニ、仲良ク」


「フレイ兄様ト、ロキト、私デ。子供ノ頃ノヨウニ、楽シク」


「あぁそうだ、ヘズの弟のバナジスライトは返してくれよ。もう人質はいらないだろう」


 無邪気な幼子のような戦乙女を数多従えて、フレイがバナジスライトを取り上げる。


「キレイ、キレイ」


「うんうん、きれいだねえ。でもフレイヤ、きみたちのバナジスライトはもっときれいさ。そして、今度こそきちんと蘇らせてあげる。楽しみにしていて」


「ハイ、兄様」


「兄様、大好キ!」


 フレイは何人ものヴァルキリーの頭を撫でた後、ロキに向き合った。


「そんなわけさ。そこの小娘と、ついでに人間の小僧も上に行っていいよ。死ぬ時に一人だと寂しいだろうからね。

 オーディン様の心配の種をしっかりなくして、星の収穫に進まなければ。だから安心して、殺されておいで」


 エレベーターの扉が再び開いた。

 エリンはロキを見るが、彼は軽く首を振った。


「行ってくるがいい、エリン。あいつが言うほど、お前とオーディンに差はない。セティと一緒に力を尽くして、どうか、星の終焉ラグナログを止めてやってくれ」


「はい」


「もちろんだよ!」


 決意を込めて上げられた声を、フレイはさもおかしそうに笑った。


「これはこれは、勇ましい。子供の純粋な心は、いいものだね。では我々大人は、彼らを応援してあげないと」


「白々しい。吐き気がする」


「あっははは。ひどいねえ」


 エリンとセティはエレベーターに乗り込んだ。ドアが閉まって上昇が始まる。

 あっという間にロキとフレイの姿が遠ざかり、見えなくなった。







 エリンとセティが去った広間で、フレイとヴァルキリーたち、そしてロキが対峙する。


「さて」


 ヴァルキリーの羽ばたきに包まれながら、ロキが言った。


「我々アース神族は不死の身体。僕ときみとで能力の限りを尽くして戦ったとて、お互いに殺すことはできないよ。まさに徒労だ。

 そんな無駄はやめて、今からでもアースガルドに帰ってこないかい?」


 フレイの言葉をロキは鼻で笑った。


「バカバカしい。アースガルドに戻って何になる。死者の蘇生などという、実現しない夢を追い続けるオーディンを説き伏せろとでも?」


「死者の蘇生は実現するよ。理論上、この星のバナジスライトの六割を費やせば、十万の民は復活する。生前の人格、知能、行動パターン、能力、全てを兼ね揃えて、だ。身体こそ魔術ホムンクルスだけど、ここまで完璧に生前を再現できれば、死者の蘇生と言えるじゃないか」


 フレイは言って、うっとりとヴァルキリーの髪を撫でた。彼とそっくりな、不完全な妹の髪を。

 その様子を嫌悪を隠そうともせずに見て、ロキが言う。


「……お前とは根本的に意見が合わない。たとえバナジスライトに完璧な記録が残されていたとて、それが死者の代わりにはならない。あれはあくまで記録。それまでの情報をしたためただけのもの。

 死者の生前の行いを詳細に書いたノートがあったとて、それがその人の代わりになるはずがない」


「ノートみたいな文字記録ならそうだろうさ。でも、バナジスライトの超巨大容量の情報だよ? 細胞の一つ一つから神経伝達のあり方までも記録して、再現する。それが死者蘇生でなくて何だというんだい。

 ロキ、きみは頭が固いよ。肉体など入れ物にすぎない。魂を完璧な形で再現さえすれば、それでいいんだ」


「もういい。話し合いは無駄だとよく分かった。お前にとって命とは、何度壊しても修理すれば元通りになる玩具のようなもの。一つきりのかけがえのないものとは思わないようだ――」


 唸るようなロキの言葉に、フレイは肩をすくめた。


「心外だなあ。僕は命をとても大事にしているよ。だからこそ、こんなに長い時間をかけして蘇生を目指しているんだ。それは全て、我が妹フレイヤのため。僕はあの子にもう一度会いたくて、三千年の時を過ごしてきた」


 フレイは近くのヴァルキリーに手を伸ばし、髪を撫でて……ぐしゃりと頭蓋を握り潰した。ヴァルキリーは声を上げる暇もなく絶命した。

 流れ出る脳漿と血に汚れるのも構わず、フレイはギリギリと指先に力を込める。


「こんなまがい物ではなく、本物のフレイヤに会うために耐えてきた。そして、今度こそ願いが叶いそうなんだ。邪魔をするな、ロキ。

 オーディン様があの小娘に負けるとは思えないが、万が一のことがある。僕がすぐに行って、あの娘を殺してくるとしよう」


 フレイは血まみれのヴァルキリーを投げ捨てた。仲間であるはずのヴァルキリーたちは誰も気にしていない。

 翼をはためかせて、主の周囲に寄り添っている。

 そんな彼らに対し、ロキが言った。


「エリンを見くびらないでもらおう。あの子は……大きく成長した。今やオーディンに力が届くと、信じているよ」


 一歩を踏み出し、軽く構えを取る。

 フレイが嘲笑った。


「なんだい、やる気かな? しかしきみ、バナジスライトがずいぶん削られている。そんな弱々しい力で、僕と妹たちとの相手ができるとでも?」


「やってみないと分からんさ」


 フレイが指を鳴らすと、ヴァルキリーたちが散開した。


「仕方ないね。きみをさっさと封殺して、オーディン様の助力に行かないと」


 フレイも前に進み出る。

 アース神族同士の戦いが始まった。


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