第36話 地下基地
エリンと無精髭の男は、下町の入り組んだ路地を進んでいく。
道中、彼は自らをゼファーと名乗った。
やがて裏路地の汚れた扉の前で立ち止まると、ゼファーがノックをした。コンコンコンと三回、次にコンッと軽く一回、最後にコンコンと二回。
ややあって、ガコンと錠が動く音、軋んだ音とともに扉が開いた。中からは、痩せて目が落ちくぼんだ男が覗いている。
「戻ったぜ」
「……ああ。早く入れ」
エリンとゼファーが中に入ると、扉が鈍い音を立てて閉められた。
辺りは薄暗く、錆と油の匂いが満ちている。
痩男の先導で、暗い廊下を進んで階段を降りた。エリンが段数を数えてみたら、五十二段あった。
さらにその先の通路を進むと、また扉がある。
扉が開けられた。
静まり返っていた廊下に、急に活気ある人々の喧騒が流れてくる。
扉の先は大きな部屋だった。壁際は巨大な機械類で覆われており、床も半ばが何かの装置のコードで埋め尽くされている。
前面の壁には巨大なモニタ。各個人の前にも小さな端末がある。ケーブルが床を複雑に這っていた。
その間を縫うようにして、大勢の人々が忙しく立ち働いていた。その数ざっと、三十名程度だろうか。
「おい、みんな。エリンさんを連れてきたぞ」
ゼファーが声を張り上げた。部屋の人々がこちらを向く。
「おぉ、その子がロキ様の言っていた、運命の子」
「子供じゃないか」
「セティもこんなもんだろ」
「つか、痩せっぽちのチビじゃねえか」
最後のガラの悪いセリフは、部屋の中央にいた男性から発せられた。年齢は二十代半ばくらいに見える。
エリンは彼を見て、内心で首を傾げる。
その人は金の髪に蜂蜜色の瞳をしていた。服装は他の人と変わらない。簡素なシャツにズボンだ。それはいい。
けれど肌の色がずいぶんと浅黒いのだ。夏にたっぷり日焼けをしても、あんな褐色にはならないのではないか。エリンが初めて見る肌の色だった。
「なんだ、チビ。俺が気になるか?」
「ええと。肌の色が変わっているな、と思って」
すると彼は歯をむき出して笑った。
「ははっ! そりゃそうだ、ミッドガルドのなまっちろい奴らに比べれば、俺は黒く見えるだろうよ。
――俺はスルト。ムスペルヘイム、砂漠の民の長だ。この陰気な国より太陽に近い、灼熱の土地の生まれだぜ」
「ムスペルヘイム!」
それは、オーディン教会が悪魔の地と呼び、ロキが逃亡先として提示した国である。
オーディンの偽りの支配から逃れて、独立した国だった。
「お国紹介は後にしようや。今は一刻を争う。……シンモラ、状況はどうだ?」
スルトが横の女性に尋ねる。
シンモラと呼ばれた彼女は、目の間のモニタを操作しながら答えた。シンモラもまた、褐色の肌に銀の髪の人だった。
「処刑予定地の中央第二広場は、既に多数のヴァルキリーが対能力者、対アース神族の防御式を敷いています。たとえロキ様でも、正面突破は不可能なレベルです」
「ふん。いるのはヴァルキリーだけか?」
「今のところは」
シンモラのモニタには、地図が映し出されていた。地図上にはたくさんの赤い点が動いている。ヴァルキリーを示しているようだ。
「第九小隊の連中の居場所は、特定できたか?」
スルトはまた別の男性に声をかけた。
「ラーシュ、ベルタ、セティに関しては特定しました。ミッドガルド中央区地下、ユグドラシルの根・D三階部分です」
「シグルドは?」
「不明です。恐らくアースガルドかと」
他にも何人もの人々が、情報のやり取りをしている。
エリンはそのやり取りに耳を澄ませた。これらの情報を組み合わせて、仲間たちを助け出さねばならない。
「よっし。だいたい情報は出揃ったな」
軽く拳を打ち合わせて、スルトが言った。
「ロキの旦那はまだ戻ってこないが、先に作戦会議を……」
言いかけたところで、スルトのすぐ横に新しい人影が現れる。ふっと影が実体化するかのような
「今、戻った。ひどいことになったものだ」
相変わらずの仮面姿で、ロキが佇んでいた。
その場ですぐに作戦会議が始まった。
「救出作戦として、案はいくつかある」
スルトが言う。
「一つ。処刑場に奴らが引き出されたタイミングで乱入。ただし、処刑場は相当に警備が厚くされている。また、俺らが遠慮なく暴れれば当然、市民を巻き込む。まぁミッドガルドのクソ野郎どもを心配したって仕方がないが、一応な」
彼は肩をすくめて続けた。
「二つ。ベルタらが今の位置にいるうちに急襲をかける。これは、ユグドラシルの根は構造不明部分が多いのが痛い」
ロキがうなずいた。
「あそこは頻繁に増改築されているエリアだ。私が前に把握した部分は、もう変わってしまっているだろう」
「三つ。ベルタやシグルドが処刑場まで移動する間を狙う。処刑場は分厚く対術式が敷かれているせいで、ヴァルキリーども自身さえ
「なるほど……」
エリンは考え込んだ。正直、どの案も成功率は高くないように見える。
もちろん、ロキとスルトは陽動や他の作戦を組み合わせるつもりだろう。それでもどこまでやれるだろうか。
「ロキさん」
考えながらエリンは言った。
「私の存在は、アースガルド側にどのくらい把握されていると思いますか?」
街頭で聞いた広報官の言葉では、『第九小隊に悪魔が一人同行していた』とのことだった。年齢や人相などの外見特徴は一切触れられていない。やや不自然である。
「セティたち三人からは、エリンの情報は漏れていないはずだ。知られたとしたらシグルドからだが、前にも言った通り、お前には常に偽装術がかかっていた。これは、お前を目の前にした相手の認識をくらますだけでなく、お前を知る者から情報を引き出す際にも適用される。
ゆえに多少特異な能力を持つ、人間の少女……といった程度の認知である可能性が高い。あるいは、もっと精度が低いかもな」
ロキの言葉にスルトも続けた。
「で、ロキの旦那が関わっている以上、危険人物だと思われたんだろ。何なら俺らムスペルヘイムの関係者だと認識されたかもな」
「そうですか……」
エリンはさらに考え込んだ。
「それなら、私はあまり警戒されていないんですよね」
「そうなるな」
「じゃあ、私が主体で動きます。陽動は皆さんに任せて、本命をやります」
ロキが腕を組んだ。
「賛成しかねる。本隊は最も危険が伴う役目だ。エリン、お前は陽動部隊に参加して、適度な所で退避しなさい」
「……今更、何を言うの?」
エリンはぎろりとロキを睨んだ。
「私は絶対にみんなを助けるって、言ったよね? それに、こんなにたくさんの人が協力してくれるのに、私が安全な場所にいるなんてあり得ない。私が力を尽くさないで、どうするというの!」
「ブハッ」
エリンは心の底から真面目に言ったのだが、スルトが吹き出した。
エリンは面食らいながらも抗議する。
「なんですか!」
「あー、すまんすまん、威勢よく啖呵切るチビだと思ってよ。ロキの旦那の身内だというから、どうせ斜に構えたいけ好かない娘だと思ってたのに、いい意味で期待を裏切られた」
「おいスルト。それはどういう意味だ」
ロキが仮面の下から文句を言うが、スルトは取り合わない。
エリンは一瞬だけふくれっ面をして、すぐに引っ込める。続きを言わなくては。
「それから、ロキさんはアースガルドの裏切り者で、オーディンやヴァルキリーがずっと追っているんですよね」
「あぁ、そうだ」
「では、ロキさんが陽動をやって下さい。第九小隊のみんなの中では、第三段階の能力に達したシグルドさんが一番、重要度が高いはず。彼をロキさんが助けに行って下さい。そうしたらアースガルドは、そちらが本命だと考える」
部屋の中の人々は、いつしかエリンを注視していた。
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