第7話 決意と邂逅
……私にも、居場所ができるかもしれない!
エインヘリヤルたちの話を聞いた夜、エリンは興奮してなかなか眠れなかった。
すぐ隣では、小さなティララが健やかな寝息を立てている。
子どもたちとお別れになるのは心残りだったが、二度と会えないわけではない。エリンが望めば、たまの帰郷は不可能ではないだろう。
旅立つための準備を考える。
孤児である彼女には、私物はほとんどない。
着古した服が少し。薄っぺらくてあまり暖かくない防寒着が一着。
衣類は全てお下がりで、最初の持ち主が分からないほど古いものばかりだ。継ぎ当てをしながら大事に使い続けてきた。
ほとんど唯一、彼女だけのものと言えるのは例のペンダントくらいだった。
「駄目だ。眠れない」
ずいぶん時間が経ってから、エリンはベッドに身を起こした。
少しだけ外を散歩してこよう、と彼女は思った。体が冷えない程度に、ごく短く。
本当は、夜に出歩くのはいけないことだ。教会の規則で、子どもたちは夜に出かけるのを禁止されている。
(でも私は、もう子どもじゃない)
十三歳が大人かどうかは分からないが、少なくとも小さな子どもではない。
それにエリンは、もうすぐこの村を出ていく。もう規則に縛られる必要はない。そんな風に思った。
今まで必要以上にいい子でいようとした、反動かもしれなかった。
カーテンの隙間からは、青白い光が漏れている。
今夜は月が丸い。明かりには困らないだろう。
部屋の扉を開ければ、廊下はいつもと同じく静寂に包まれている。
奥の客室は、エインヘリヤルの四人が泊まっている。彼らはもう寝入ったようで、物音は何も聞こえない。
防寒着を身に着けて、エリンは外へと出た。
教会の外は、一面の青い光に満ちていた。
月の青白さ、雪の白。そして、夜の深い青の色。それらが混じり合って、不思議な陰影を地上に描いている。
満月にほど近い月は大きく、高く。地上を明るく照らしていた。
冬の深夜の空気は澄み渡って、触れれば切れるような錯覚さえもたらした。
全てが青と白に沈んで、色を失ってしまったようでもあった。
エリンは昔見た、幻燈の影絵芝居を連想した。
エリンは雪の道をゆっくりと歩く。夜の低温で雪が粉になり、踏む度にきゅ、きゅと静かな音を立てた。
――ふと、エリンは既視感を覚える。
遠い記憶の向こう側、同じような冬の夜、きゅ、きゅと鳴る雪を踏みながら。
誰かに手を引かれながら、歩いた思い出が……ごくかすかに蘇る。
(どうして? 冬の夜に歩くなんて、今までほとんどなかったのに)
教会では、孤児たちが夜に出歩くのを禁止していた。
それなのに、幻視するように思い出す光景は、いったい何だろう。
エリンはゆっくりと歩く。まるで何かに導かれるように。
やがて彼女は、村外れまでやってきた。
村の入口の目印に、大きな杉の木が植えてある。二階建ての家よりも高い木は、けれど今は下半分が雪に埋まって、見上げるほどの高さはない。
その天辺、細い枝先に誰かが立っていた。
真円に近い月を背にして、体重をまるで感じせない姿で。真冬の凍える空気の中、身動き一つせずに佇んでいる。
あまりの非現実感。エリンは最初、幻かと思ったくらいだった。
「――この村を、立ち去るつもりか」
その人物が言った。奇妙にくぐもって聞き取りにくい声だった。
月の逆光に目を細めてよく見ると、彼(?)は仮面をつけている。ウサギあるいはリスを思わせる、丸みのある獣の仮面だった。深くかぶったフードの奥、ほとんどが影で隠れて見えない中、仮面の白さだけが際立っている。
「村を出れば、お前は宿命に巻き込まれるだろう。それで、いいのか?
今ならまだ――間に合う。戻って、全てなかったことにしろ。そして今まで通り、この村で暮らせ――」
幼子に言い聞かせるような、諭すような口調だった。
凍るような夜風が吹いて、仮面の人物の暗緑色のマントをはためかせる。
呆然としていたエリンは、その動きで我に返った。
「どうして、そんなことを? 私はこの村でずっと、心を押し殺して生きてきた。やっと、居場所ができそうなの。やっと、私が誰なのか分かりそうなの! あの人たちは、私と同じ。同じ力の持ち主。一緒に行けば、きっと何かが分かる!」
「――同じ?」
仮面の人物は、意外そうに言った。
「まさか、何を言うのやら。奴らはオーディンの尖兵にして、哀れな人形に過ぎない。お前とは違う。同一視などせぬことだ。道を誤る」
「どうして……」
エリンは言った。やっと掴みかけたきっかけを否定されて、悲しみと怒りが胸を満たしていた。
「どうして、そんな言い方をするの! 何も知らないくせに。私のことなんて、何も知らないくせに!
私は、私を知りたい。私がどこから来た何者なのか、知りたい!
お父さんやお母さんはいるのか、生まれ故郷はどこなのか。どうして能力を持っているのか。ずっと知りたくて、でも知る機会がなかった。
だから私は、彼らについて行く! 一緒に旅をして、故郷を、帰るべき家を探すの。邪魔をしないで!!」
普段は大人しいエリンの、心からの叫びだった。
エリンは猪の白獣を思い出す。彼は苦しみながら、それでも家に帰りたがっていた。やむを得ないとはいえ殺してしまって、悲しかった。病だというなら、治してあげたかった。後悔ばかりが残っている。
「もう心を押し殺して、後悔するのは嫌なの! あなたが何を言おうと、私は旅に出る。色んな場所に行って、色んな人に会って、故郷を探す――!」
エリンは瞳に力を込めて、頭上の人物を見た。一歩も引くつもりはないと、腹に力を入れた。
仮面の人物は、しばし無言で彼女を見下ろし……
やがて、ぽつりと言った。
「そう、か……。お前もまた、求めるものがあるのだな。
――分かった。決意があるのならば、もう止めぬ。
行くがいい。その先に何があろうとも、受け止める覚悟があるのならば。せめて私は――いいや、何でもない――」
ふと、暗緑色のマントが揺れた。ばさりと布端をひるがえし、一瞬だけ背中が見えて。
エリンが瞬きをすると、木の上の影は既に消えている。
「ま、待って! あなたは誰? 私のことを、何か知っているの?」
答えはない。逆光になった木の向こう側、冬の丸い月が静かに光を投げかけているのみである。
「待って、置いていかないで――!?」
とっさに言って、エリンは驚いた。誰かに対して、この言葉を投げかけたのは初めてだった。
「置いて、いかないで……」
胸に馴染んだ言葉。でも、決して口に出さなかった言葉。
それは、誰もいない冬の夜空に流れて散って、誰の耳にも届かず消えた。
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表紙→ https://kakuyomu.jp/works/16817330666421532110
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