第46話 わずかな休息


 ムスペルヘイムに入り込んだヴァルキリーは、最後の一体が地に落ちた。

 シグルドに斬られた兵士たちも、重傷ではあるが一命を取り留めている。彼に残っていた心が、殺戮のブレーキを踏んでくれたのだとエリンは感じた。

 ドーム状のエネルギー・シールドの外ではまだ小競り合いが続いているが、勝負は決したも同然だった。


 エリンたちはシグルドを医務室に運び入れて、治療を施した。

 肉体の損傷はエリンが治す。出血はすぐに止められた。

 そして、末期まで進んでしまったユミル・ウィルスの病は、ロキが特効薬を与えた。


「シグ兄、これで元通りになるよね?」


 ベッドの脇に膝をついて、セティが泣きそうになりながら手を握っている。

 シグルドは少し前から意識を失って、血の気を失った顔色のままで眠ってしまった。


「……確約はできない。そこのラーシュに比べれば、病状が格段に重いのでな」


 ロキが仮面越しの視線を向けると、ラーシュは一歩、近づいた。

 緊張の残る面持ちで、ロキに言う。


「貴方に助けていただいたと、理解しています。アースガルドの神々の欺瞞も、今となっては痛感しました。

 けれどその特効薬とやら。それは……貴方自身のバナジスライトでしょう。なぜ我々に分け与えたのです。そんなことをすれば、貴方がただでは済まないのに」


 エリンは目を見開いた。ロキが濁していた出処は、彼自身のものだったとは。

 ロキは軽く肩をすくめた。


「これだから精神感応者テレパシストは嫌いなんだ。すぐにそうやって、他人の問題に踏み込んでくる」


「冗談を言っている場合ではありません。貴方のバナジスライトは、僕の中に熔けてしまった。もう返却はできない。この恩を……命の恩を、どう返せばいいのです」


 ラーシュの表情は苦しげだった。彼だって自分の身を削ってセティとベルタをかばったのに、いざ立場が逆転すると受け入れがたいらしい。


「気にするな。そんなことよりも、お前は私の眷属になった。これからこき使ってやるから、覚悟しておけ」


「はぁ……」


 エリンの血を与えたフレキが忠実な友となったように、ラーシュもまたロキの影響を受けるとの話を聞いて、ラーシュは深い溜め息をついた。


「悪神ロキの眷属ですか。少し前の僕が聞いたら卒倒しますよ、それ」


「今は卒倒するなよ。そんな暇があったらキリキリ働け。精神感応者テレパシストの仕事は多いからな」


「はいはい」


 どうやらこの二人はいいコンビのようだ。エリンは内心で微笑んだ。

 シグルドの容態は心配だが、手は尽くした。看病を続けながら、回復を祈ろうとエリンは思った。

 それから話題は、セティの能力に移る。


 ロキが言った。


透視クレアボヤンスの能力が進化したな。偽物レプリカの能力は、私としても予想外だった。第三段階に相当するだろう」


「つまり、シグ兄と同じ?」


「あぁ、そうだ。だがシグルドの例を見るに、ユミル・ウィルスの病状が一気に進行する可能性がある。予防措置としてエリンの血液を飲んでおけ。今であれば抗体が十分に効く」


「えっ」


 セティは言葉に詰まってエリンを見た。


「で、でも、血を飲むったって、どうすりゃいいのさ」


「簡単だよ。こうしましょう」


 エリンは左手の人差し指を立てる。そこに右手の指をあてがって、念動力サイコキネシスの力を小さい刃に変えた。

 ピッ、と薄い傷が走って、血がたらりと垂れる。


「はい、どうぞ」


「どうぞって!」


 血が滲む指を顔の前に突きつけられ、セティは後ずさった。

 エリンはニコニコと笑顔でセティに迫る。


「ほら、血が垂れちゃうよ。はやくして」


「ううううぁ~!」


 セティは壁際に追い詰められた。これ以上逃げ場はない。

 そこまで来て、エリンはふと首をかしげた。


「もしかして、もっと太い動脈の血じゃないと駄目かな? 首筋とか、足の付根とか」


「まぁ、そういう場所の血の方が多少は効果が高いかもしれんな」


 と、ロキ。


「首筋! 太もも!? ああぁ、分かったよ! 指を舐めるから、それで許して!」


 セティは目をつぶってエリンの指を口に入れる。目を閉じたせいで逆にその他の感覚が鋭敏になって、彼は全身から冷や汗をかいた。


(甘い……。いい匂いがする)


 指先からあふれる血は甘やかで、不思議な味がした。血の臭いなど不快でしかなかったはずなのに、うっとりとする。

 もっと欲しい。もっと飲みたい。強い欲求に逆らえず、セティはエリンの指を吸い続けた。


 と。


「いい加減にしないか。調子に乗りすぎだろうが!」


 頭を引っ張られて指から引き剥がされた。見ればロキが、肩を怒らせてセティの襟首を掴んでいる。


「ロキさん、乱暴に扱うのはやめて! 指を吸ってるセティ、赤ちゃんみたいでかわいかったのに。血の量はもう足りた?」


「十分だ。このクソガキめ、私のエリンに何をしているのか」


「血を飲めって言ったの、ロキのおっさんじゃん! あとエリンはおっさんのじゃないし!」


 名残惜しそうに口をもごもごしながら、セティが抗議した。


「うるさい、黙ってろ。それにエリン、血を飲ませるだけなら器に垂らせばよかったんだ。何故指から直接など、はしたない真似を……」


「器からでよかったんですか? フレキの時は直接体から飲んだから、その方がいいのかなって」


「わふん」


 医務室の窓の外で、フレキが「呼んだ?」とばかりに返事をした。大きな尻尾をふさふさと振っている。

 衛生上の問題から、動物は医務室に入れないのだ。


「ロキ様」


 ラーシュが言った。ものすごく嫌味な口調だった。


「貴方が娘同然のエリンを思いやる心は、よ~~く伝わりました。けれど彼女はもう十三歳。そろそろ恋を知っても良い年頃です。どうか寛大な心で、見守って差し上げてはいかがですか?」


「なんだお前は。いきなり様付けするな、気色が悪い。あとエリンが恋などするものか。認めんぞ」


「失礼。眷属ごっこです」


 もはやぐだぐだである。

 やがて誰かが吹き出して、それをきっかけに皆が笑い出した。

 こんなに明るく笑ったのは久しぶりだと、エリンは思った。

 明るい空気がシグルドの心に届い欲しい。そして目を覚ましてくれるよう願いながら、エリンは束の間の安らぎを感じていた。


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