第29話 心の交流
シグルドを先頭に、エリンとセティは洞窟を出た。まだふらついているエリンは、セティが支えてくれた。
外は夜だった。昼間よりも冷え込んだ空気が、エリンの頬を撫ぜる。
今日の雲は分厚く、月の光は地上に届いていない。ほのかな雪明かりが暗闇を静かに照らしている。
「白獣はどこだ?」
シグルドが問えば、ラーシュは木立ちの暗闇を指差した。そちらに目を凝らすと、赤く灯る小さな点がある。確かに白獣の瞳だった。
だが獣はじっとしているばかりで、近づいて来ない。襲いかかってくる様子もない。
「白獣がこの距離で何もしてこないなんて、初めてよね」
ベルタが呟くように言った。
エリンはそっと
狼の白獣はエリンの
――噛ンデ、ゴメンナサイ。
狼が思念を返してきて、エリンは驚いた。
その意思に苦痛はなく、狂乱もない。およそ白獣とは思えない穏やかな思念だった。
――血ガ、イッパイ出テタ。怪我シタ。
「大丈夫だよ。ちょっと痛かっただけで、もう治ったから」
エリンが言葉を返すと、狼は不思議そうにしている。野生の獣としても、あれだけの怪我がもう治るなどあり得ないと理解しているのだろう。
――ソッチニ行ッテモイイ?
エリンは息を呑む。そんなことを言われるとは思ってもみなかった。
「あの白獣が、こちらに来たいそうです」
「なんだと」
シグルドが表情を強張らせた。ラーシュとベルタも険しい視線を送ってくる。
セティだけは、じっと暗闇の中の獣を見つめていた。
「とても穏やかな様子です。昼間、パニックを起していたとは思えないくらい。だからどうか、手出しせずに見守って下さい」
エリンが言うが、ラーシュは首を横に振った。
「先程は見守った結果、エリンさんの大怪我につながりました。これ以上はとても認められない」
「白獣が向こうから来たのなら好都合。速やかに殺すべきだろう」
シグルドも言った。エリンは拳を握り締める。
「シグ兄、ラーシュ兄、ちょっと待って。あいつ、やっぱり変だよ」
ところがセティが口を挟んだ。
「バナジスライトがすごく大きくなってるのに、光り方がとてもきれいだ。赤だけじゃなくて、色んな色が混じってる」
「嘘でしょ? バナジスライトが赤くないなんて、そんな話は聞いたこともない」
ベルタが言い返すが、セティは首を振った。
「間違いないよ。こんな白獣、こんなバナジスライト、初めて見た。だから殺す前に、もう一度エリンに任せてみようよ」
エリンの視線を受けて、シグルドはしばらく沈黙し――
「……分かった。最後のチャンスだ」
ラーシュの抗議を黙殺して、答えたのだった。
エリンは仲間たちから十ヤード(九メートル)ほどの位置まで移動した。足はふらふらしていたが、力を込めて一人で歩いた。
「お待たせ。いいよ、おいで」
狼に呼びかける。すると獣はゆっくりと雪を踏んで近づいてきた。どこか遠慮がちな、おずおずという表現がぴったりな足取りだった。
背後のエインヘリヤルたちに緊張が走る。
洞窟の中では気づかなかったが、狼は白獣らしく大きな体をしていた。四足で歩いているにも関わらず、頭の位置がエリンより高い。小さめの馬ほどの大きさだ。
体格はがっしりして毛皮もあるので、むしろ馬よりも大きく見えた。
狼はエリンの手前までやって来て、足を止めた。大きな体を縮こめるようにして、上目遣いで彼女を見ている。
――怪我、モウ痛クナイ?
「うん、もう平気。ほら見て、血も止まってるでしょ」
エリンは防寒具の上から、左肩をぽんぽんと叩いて見せた。ぐるっと肩を回す。さすがに少々の痛みと違和感はあったが、大きな問題ではない。
狼は不思議そうにエリンを見て、もう数歩、近づいた。それからそうっと首を伸ばし、彼女の匂いを嗅いだ。最初は脇腹の辺り、次に肩口。
後ろでシグルドの殺気が膨れ上がる。それを感じ取って、狼は飛び退いた。ウゥ、と低く唸る。
「大丈夫。あの人は、私を心配しているだけ。何もしないよ」
エリンが言い聞かせると、狼は耳を伏せた。
狼が迷っている様子だったので、エリンは思い切って一歩を踏み出した。手を伸ばして、大きな耳の付け根に触る。
そっと撫でてやれば、狼はじっと受け入れている。
エリンは先程、シグルドがセティの髪をくしゃくしゃとかき回していたのを思い出した。真似をして、毛皮をわしゃわしゃと撫でてみた。
――クスグッタイ。
目を細めた狼から、親愛の感情が流れてくる。
エリンが両手で抱きかかえるように撫でてやると、狼は嬉しそうだった。大きな口を控えめに小さく開けて、長い舌でエリンの頬を舐める。
「私も、くすぐったい!」
笑いかければ、狼も応える。エリンは狼に抱きついて、手の届く限り毛皮を撫で回した。
「そんな、馬鹿な……」
背後で呆然とした仲間たちの声がする。
エリンは白獣と心が通じ合ったのが、嬉しくてたまらない。獣と一緒に雪の上を転がって雪まみれになって、声を上げて笑った。
雪明かりの薄光の中、少女と獣の喜びの声が凍るような夜空に響いていった。
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