第28話 牙
狼の顎の力は強い。本来であればか細いエリンの肩など、一瞬で噛み砕かれるはずだった。
『左肩部分に穿通攻撃を確認。自動行動<オートモード>にて防御、光壁を発動します』
牙が肩に突き刺さる直前、ペンダントが熱を帯びた。
瞬時に淡く光る壁が出現し、狼の牙を防ぐ。
しかし白獣と化した狼の能力は、牙にこそあった。獲物を狩り、噛み砕く牙に。
猪の白獣の突進を受け止めた光壁にヒビが入り、貫かれる。
結果、エリンの左肩の骨を一部砕いたところで狼の牙は止まった。
エリンは痛みよりも先に肩が壊れたと感じた。次に激痛が襲ってくる。
歯を食いしばって耐えられたのは、狼の心が流れ込んできたからだ。
「ガアアァァ――!」
狼はまた相手を噛んでしまったことを悔いながら、泣き叫んでいた。
傷口から流れ出る血の味を感じて歓喜していた。
それでも血に酔わないようにと必死で己を押し留めていた。
群の家族を噛んでしまった記憶がフラッシュバックして、パニックを起こしていた。
「エリン! 今行くわ!」
洞窟の入り口にかがみ込んで、ベルタが叫んでいる。
「駄目! ベルタさん、もう少しだけ待って!」
――私の責任だ。エリンは痛感した。
具体的な方策も持たず、ただ気持ちだけが先走って行動した私の責任だ、と。
「ごめんね、狼。驚いたよね。お前は悪くないから。ちょっとくらい血を飲んでも、骨をかじっても大丈夫。だから落ち着いて……」
狼をなだめながら、エリンは必死で考える。このまま白獣が血の誘惑に負けて襲いかかってきたら、殺さなくてはならなくなる。
狼は今はまだ迷っている。血に酔わないように必死で頑張っている。今なら引き返すチャンスはある。
『対象の白獣を走査<スキャン>。バナジスライトの成長率、2パーセント、2.3パーセント、急速に成長中』
目の前の獣に意識を集中すると、エリンの脳裏に映像が映し出された。
狼の脳の奥で、赤い宝石が脈動している。暗い洞窟の中、わずかな光さえも取り込んで。
「ギャアアアァァッ!!」
狼が悲鳴を上げた。大きく口を開けたせいで、エリンの肩から牙が離れた。
牙が引き抜かれた傷口から血が噴き出る。あっという間に肩を血まみれにして、腕まで伝い落ちる。
――マブシイ! マブシイ! ドウシテ!!
狼が咆哮するように苦痛の声を上げる。
何度も頭を振って、それからでたらめに走り出した。幾度も洞窟の壁にぶつかり、とうとう入り口から飛び出ていく。
「シグルドさん! お願い、手出ししないで!」
『妨害能力波<ジャミング>発動。念動力能力者<サイキック>・シグルドの能力を一時的に封印します』
必死で叫ぶと、ペンダントが反応した。洞窟の外から仲間たちの声が聞こえる。驚く声と怒号と。
間を置かずにベルタがやって来た。血まみれのエリンを見て息を呑む。
「すぐに手当を。エリンは動かないで。……ラーシュ、セティ! 来てちょうだい!」
「狼は、あの子はどうなりましたか」
傷の痛みと出血の悪寒をこらえながら、エリンは尋ねた。
「すごい勢いで洞窟を飛び出して、そのまま走って行ってしまったわ」
「誰も襲いませんでしたか?」
「ええ、襲ってない。走って行っただけ」
「そう、ですか……」
狼の行動を知って、エリンは安堵した。まだチャンスはある。
出血のせいで意識が落ちかけたが、力を振り絞った。
『自己走査。左鎖骨、粉砕骨折。左肩甲骨、不完全骨折。鎖骨下動脈、腕頭静脈に咬傷あり。出血多量。
血液内の病原細菌をクリーニングの上、止血措置、および各種損傷の修復措置を実行します』
ペンダントが熱を帯びて光り、治癒が始まった。みるみるうちに噛み砕かれた骨がつながり、血管が修復されて、皮膚の傷が塞がっていく。
「すごい……」
そう呟いたのは、ベルタか、もしくは他の誰かか。
確かめる余裕はなく、エリンの意識は闇に落ちた。
ぱちぱちと炎のはぜる音で、エリンは目を覚ました。
冬の山にいるとは思えないほど、辺りは暖かい。見ればエリンの全身は毛布にくるまれていて、炎のすぐそばに寝かされていた。
「あ! エリン、気づいたね」
セティが覗き込んでくる。
「なんか、このやり取り、前にもしたね」
「うん。私、倒れてばっかり」
エリンは情けなさを自覚しながら、ゆっくり身を起こした。セティが背を支えてくれる。
彼女が横たわっていたのは洞窟の中だった。入り口からは薄明かりが漏れている。どうやらもう夜のようだ。
ベルタとラーシュの姿は見えない。外で見張りをしているようだ。
「意気込んで行った割には、成果がなかったな」
セティの隣にいたシグルドが言った。エリンはうつむく。
「……はい。甘く見すぎていました。なまじ意思疎通ができるから、獣たちともっと話し合えると思っていた。
でも彼らは、たとえ白獣ではなくとも、人と違う価値観の生き物です。私は、それが分かっていなかった」
ひどく落ち込んだ様子のエリンを見て、セティが慌てて言った。
「でも、でも、ちゃんと話ができたんでしょ? それなら第一歩じゃん。今までどんなエインヘリヤルだって、何ならヴァルキリー様だって、白獣と話なんかできなかったよ」
「それで、話とやらは結局どうなった? まあ、きみのその怪我を見れば予想はつくが」
シグルドの言葉に、エリンは左肩を見た。噛まれて破れてしまった防寒具が繕われている。そっと肩部分の上着を脱いで肌を確認すると、傷口はもう塞がっていた。
僅かに皮膚が赤くなっている。怪我の痕跡はそれだけだった。
ただ、それなりの量の血を失ったせいで、体力は消耗している。起き上がっているだけで目眩を感じた。
「ちょ、エリン! いきなり脱がないで!」
セティが大慌てで両目を手で覆っている。でも彼は透視能力者<クレアボヤンサー>だ。その気になれば手指など簡単に透視できるだろう。能力がついたり消えたりチカチカしているのがエリンには分かって、つい笑ってしまった。
「はい、もう着ました」
「もう、次からは脱ぐ前に言って!」
「そんなに気にしなくていいのに。私みたいな子供っぽいやせっぽっちじゃ、どうしようもないでしょ」
「そんなことないし! エリンはかわいくて、きれいで、ええとそれから」
真っ赤になって何やら言い始めたセティを、シグルドは苦笑いしながら止めた。
「そのくらいにしてくれ。白獣の話に戻るが、あの狼は洞窟の出口にいた俺たちには目もくれず走って行ってしまった。行き先に心当たりは?」
「ありません……」
エリンは再びうつむいて、首を横に振った。
「私はあの子のことを、何も助けてあげられなかった。群から追い出されて、途方に暮れていたようです。人間を食べないよう頼んだけれど、空腹になれば襲うと言われてしまって」
「…………」
「でもさぁ、あいつ、エリンに噛み付いて血を飲んで興奮してたくせに、なんで俺たちを無視したんだろうね。白獣はたいてい、エインヘリヤルとの力の差なんて気にしないで襲いかかってくるよ」
無言のシグルドに対し、セティが首をかしげている。
「あと、すごい速さで走って行ったからよく視えなかったんだけど、バナジスライトがなんか変だった」
「変とは?」
シグルドが尋ねる。
「うーん、上手く言えないけど、あの宝石は光をすごく反射するじゃん? ギラギラ、チカチカって。でもあいつのは、なんかこう、何ていうの? ふわっと柔らかく光るみたいな」
「要領を得ないな。しっかりしてくれ」
シグルドがため息をついている。セティは必死な様子で身振り手振りをした。
「あー。えーと、こう、ふわーってぴかーって」
「分からん、仕方ない。とりあえずそれは置いておこう。まったくお前は、もう少し表現力を身に着けてくれよ。全く伝わらない」
シグルドが弟分の頭をくしゃくしゃと撫でている。セティは不満そうだ。
「ちぇ、子供扱いすんなよ」
そんな彼らのやり取りを見て、エリンはついクスリと笑ってしまった。
「お二人は、本当の兄弟みたいですね……」
その言葉の語尾にかかるように、洞窟の外からラーシュの声がした。緊張をはらんだ硬い声だった。
「シグ、セティとエリンも来て下さい。あの狼の白獣が現れました」
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