第16話 雪上の追跡
狩人は雪の上の足跡を見る。
ウサギ、キツネ、ライチョウなどの小さな跡、鹿の蹄の跡に混じって、一際大きな痕跡があった。
前足の跡は幅があり、後足は細長い。熊で間違いない。
前足の幅、前掌幅は約八インチ(二十センチ)。通常、この近辺に生息する熊のオスの平均は六~七インチ以内。かなりの巨体である。
狩人は巨大な熊が雪の上を歩く様子を克明に想像しながら、追跡を続けた。
……だが。
足跡は、ある地点で急に途切れた。
「足跡が消えた?」
ベルタが眉を寄せる。狩人は首を振った。
「『止め足』だ。一度つけた足跡をもう一度踏んで戻っている。これを熊がやるのは、警戒している時だよ。俺らに気づいているんだろう」
「……ラーシュ、聞こえた? シグルドを呼び寄せるわ」
『分かりました。シグルド、ベルタが転送します。用意を』
「ベルタ姉! 熊がいる!」
彼らの会話をさえぎってセティが叫んだ。狩人とベルタは慌てて周囲を見渡すが、見えるのは雪山の景色だけ。
「雪を掘って隠れてる! すぐそこ……!?」
その瞬間。雪を跳ね上げ、熊の黒い巨体が現れた。雪をかぶった背中の毛が逆立っている。
同時に熊の太い腕が振るわれる。ゴウ、と空気を切り裂く音がした。狙いはセティ。最も近くにいた彼は、熊と目と鼻の距離。
けれど熊の一撃は不発に終わった。ベルタが雪を蹴ってセティを抱え込み、ごく短距離の
「ベルタ姉、シグ兄を呼んで!」
「やってるわ! やってるのに、反応がない!!」
セティの必死の訴えに、ベルタは叫び返した。
先程の短距離移動も、本当はもっと余裕をもって逃げるつもりだった。なのに想定よりも短い距離で、しかも着地に失敗している。
「くそ!」
狩人が弓矢を構える。つがえて矢を放つが、熊の分厚い毛皮をろくに貫けないでいる。顎の下の急所を狙うが、外してしまう。
しかし痛みはあったのだろう、熊が狩人に向き直った。
熊の頑丈な爪が閃いた。ベルタは狩人に向かって再度の
誰もが動かないままに、狩人は熊の爪で突き刺された。まるで紙のように軽く持ち上げられ、近くの木に叩きつけられる。
「なんで!」
助けられたはずの人が死んだ。その不条理さに、ベルタは叫んだ。
動揺する彼女を、セティが必死で押し止める。
「ベルタ姉、こいつ、やっぱりおかしいよ! 俺、ずっと透視してた。それなのにこいつが視えたのは、うんと近づいてからだった。
たぶんこの熊、白獣だ。それで、俺たちの能力を邪魔してるんだ! それがこいつの能力だよ!」
ラーシュの
熊は動かなくなった狩人から爪を引き抜き、二人の方を見た。その瞳は禍々しい赤。
狩人の血に染まった爪が、腕の毛皮が、揺れるようにぶれる。黒と白とが入り混じり、不気味な灰色になっている。
「なりかけみたいね……」
ベルタが呟いた。熊は白獣へと変貌しつつある途中のようだった。
「ベルタ姉、逃げよう! 俺たち二人じゃ戦えないよ!」
「そうね、あいつが逃してくれればね」
凍りつく冬の雪山で、ベルタは脂汗が吹き出るのを感じた。とにかくもたもたしている暇はない。
セティを片腕に抱え、ベルタは
「……っ」
最大出力で行ったはずの瞬間移動は、だが、想定の何分の一も進めなかった。熊がまだ目視できる距離にいる。
熊は最初、急に移動したベルタとセティに驚いたようだ。しかしすぐに全身の毛を逆立て、殺意をみなぎらせて追ってきた。
ベルタはもう一度、もう一度と渾身の力で能力を使う。
けれどその度に移動する距離は減り、熊は確実に追いついてくる。
「ラーシュ兄! シグ兄! 助けて! このままじゃ追いつかれる。俺の能力じゃ何の役にも立たない。くそぉ、悔しいよぉ!」
ベルタの身体能力がどんどん落ちているのを透視して、セティが叫んだ。
焦る心で、泣きたくなる気持ちを押さえて、彼は必死で考えた。何か方策はないか。
熊の能力だろう、セティの透視もいつもより精度がかなり落ちている。
祈る思いで彼は叫んだ。
「頼む、誰か気づいてくれ! ……エリン!!」
ベルタとセティの声が急に途切れて、エリンはただごとではないと察した。
『ベルタさん、セティ、どこ!? 分からない!』
すぐ隣でラーシュも呼びかけているが、返事はない。
シグルドとは変わらず
『どうした。何があった。熊が見つかったのに、ベルタの転送がない』
『分かりません。急に僕たちの接続が切れて、位置も気配も分からくなりました』
エリンはもう一度、最後にセティたちの声が聞こえた場所に
乱れた雪の跡、木の根元が赤く染まっている。狩人が血を流している。否、血はもう止まっている。凍える寒さと命が途切れたせいで。
大きな爪で貫かれた肉と内臓の断面が視えて、エリンは歯を食いしばった。
熊らしき大きな足跡が続いていた。走っているのだろう、歩幅は広い。
その足跡を追っていくと、だんだんと黒いモヤのような感覚がエリンの
『これは……?』
『エリンさん、何か見つけましたか?』
『黒いモヤのようなものが視えます』
『モヤ? どこに?』
ラーシュは知覚できていない。エリンは何故と疑問に思ったけれど、今はベルタとセティの救出が先だ。
黒いモヤの先は非常に視えづらかったが、エリンはそれでも
モヤに
このままでは駄目だ、とエリンは思った。
網を広げるだけでは駄目だ。もっと違う方法で。このモヤをかいくぐるように。
そもそも、このモヤは何なのか。
――
ふと、どこからか声がした。エリン自身の声だった。それは声というよりも、頭の中で文章を読み上げるような言葉の認識に近い。
エリンは半ば無意識に胸元のペンダントを握る。熱を帯びている。
――妨害チャンネル推定。妨害区域外の
エリンの思考がぐらぐらと揺れる。確かに彼女自身の言葉なのに、コントロールできない。
――試行、失敗。一時的に
カッと灼けるような熱がペンダントから発せられた。
同時にエリンの脳が、特に右目の奥が燃えるような錯覚を持つ。
『エリン!!』
セティの声がした。叫ぶような呼び声だった。
『セティ!』
『エリン!? 良かった、
『状況を教えて』
焼け付く思考を押し殺し、エリンは問いかける。
『熊がいた。白獣のなりかけだった! 能力は俺たちの力の邪魔、今はベルタ姉と必死で逃げてる。でも
エリンは
毛皮の一部が白く染まった熊が迫っている。
ベルタの顔色が真っ青だ。限界が近い。
エリンはさらに周囲を見る。降り積もった雪、冬に眠る木々。雪の下の地面。……地面!
『セティ! 右前方、四十ヤードの地面を……』
ブツリ。彼女の中で何かが切れた感覚がした。
もうセティの声は聞こえない。エリンに呼びかける力が残っていない。
「エリンさん!」
ラーシュの声がする。
雪の地面に倒れかけた彼女を支えてくれている。
「セティ、お願い、気づいて……」
エリンは力なく呟いて。
そのまま気を失った。
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