第17話 脱出
『セティ! 右前方、四十ヤードの地面を……』
エリンの声に雑音がまじり、再び途切れた。
「エリン、エリン、何だって? 最後の方、よく聞こえなかったよ!」
何度も呼びかけるが、もう答えはない。
右前方。曖昧ながらも聞こえたのはそこまでだ。
セティは前方、右を見る。
何もない。少し開けた場所に、他と同じように雪が積もっているだけだ。
「何かあるはずなんだ。貴重な時間を使って、エリンが伝えてくれたんだから」
セティは透視<クレアボヤンス>を発動させた。熊のせいでひどく精度が低い。
こんなにも世界が遠ざかって見えたのは、彼にとってほとんど初めての体験だった。力に目覚める前でさえ、もっと何もかもが手に取るように知覚できたのに。
それでも力を込めれば、薄ぼんやりと視えてくる。
ふと、セティは視界に違和感を感じた。
右前方、四十ヤードほどの距離、雪の下の土の部分がくぼんでいる。積雪の上からでは分からないが、もともとちょっとした段差があるようだ。枯れた笹の葉がふんわりと重なって、その上に雪が積もっている。
――あれだ! エリンが教えてくれた場所!
「ベルタ姉、あっちに移動して!」
セティはくぼみの向こう側を指さした。ベルタがうなずいて瞬間移動する。
彼女はそろそろ限界だ。顔色は真っ青で、短距離の移動でさえ脂汗を流している。
セティはそんなベルタを見て、改めて覚悟を決めた。
「そんで、少し休んでて!」
「セティ!?」
彼はベルタの腕から抜け出し、地面のくぼみの手前まで行った。
両手を口に当てて叫ぶ。
「おいこら、熊! お前よくも、狩人さんを殺しやがったな。お前なんか、俺とシグ兄でやっつけてやる!」
熊がセティに近づいてくる。熊の毛皮は今や半ばが白くなっていて、瞳は淀んだ赤に染まっていた。獲物を仕留める確信をした色だった。
熊は雪を蹴散らして走り――
ドドッと音を立てて、くぼみに落ちた。
「グアァッ!?」
巨体がちょうどはまり込む大きさで、天然の落とし穴になっている。
「クソ熊、ざまあみろ! 狩人さんたちの仇、絶対取ってやるから覚悟しろよ!」
セティは雪玉を作って投げつけた。熊が怒りの咆哮を上げる。
「ベルタ姉、今のうちに逃げよう!」
「ええ、お手柄ね、セティ」
「違うよ。エリンのおかげだよ」
熊は這い上がろうともがいているが、崩れる雪に足を取られてろくに動けない。
落とし穴は絶妙な大きさで、熊の脱出を阻んでいた。
「武器を持っておけば良かった。シグ兄に頼り過ぎだったよ」
「本当。まさか能力を邪魔する力があるなんて」
彼らが持っているのは、野外作業用の小刀程度である。いくら穴にはまっているとはいえ、それで熊を仕留められるとは思えない。
二人は急ぎ徒歩でその場を離れた。ベルタの消耗が激しかったので、セティは彼女を支えるようにして歩いた。
熊が見えなくなるまで離れると、途端に重圧が消えた。能力が戻ったと感じる。
セティは周囲を見渡す。よそよそしく遠ざかっていた全てがまた近づいて、彼の五感を満たしてくれた。
同時にラーシュの思念を感じた。呼びかけてみるとすぐに返事がある。
『ベルタ、セティ! 聞こえますか。急に精神感応<テレパシー>が通じなくなって、何事かと』
ラーシュの声が聞こえる。ベルタが答えた。
『熊がいたわ。白獣のなりかけだった。能力は、私たちの力を邪魔するの』
『なんだと』
シグルドの声もする。接続はすっかり元通りのようだ。
『ベルタ、俺を転送できるか?』
『ごめん、無理そう。逃げるのにかなり力を使ったから、少し休まないと』
『分かった。徒歩で合流しよう。ラーシュ、位置確認を頼む』
『はい』
『ねえ、エリンは? エリンのおかげで助かったんだ。声がしないけど、どうして?』
セティが問いかける。
『エリンさんは、急に倒れてしまいました。彼女のおかげで助かったとは、どういう意味ですか?』
『エリンが精神感応で、落とし穴を教えてくれたんだよ!』
『はい? 何ですか、それは。接続は切れていたでしょう』
『だからぁ、……あああ、もういい! 合流したらちゃんと話す!』
セティ自身もかなり疲労が溜まっている。上手に説明できなくて、彼はがっかりした。
『それよりエリンは、大丈夫なの?』
『気を失っていますが、それ以外に異常はないようです。村に戻って教会の部屋を借りました。大丈夫ですよ』
『なら良かった』
疲れ切ったベルタをセティが支えながら歩く。熊は追ってこなかった。
それからしばらくの距離を歩いて歩いて、彼らはようやくシグルドと合流した。
シグルドはすぐに熊が穴に落ちた場所へ向かったが、熊は既にいなかった。
穴から這い出た跡、雪の上の足跡は残されていたものの、もう夕暮れが近い。
今夜は曇り空で月と星明りも期待できそうにない。この状況での追跡は無謀だった。
彼らは仕方なく引き上げた。
熊を仕留めるどころか、新たな犠牲者を出した後悔に苦く胸を焼かれながら。
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