第11話 壁の手前


 ぱりん、と小さな音がした。

 薄い氷が割れるような、高くて澄んだ音だった。


『何……!?』


 ラーシュの焦った声がする。すぐに彼の声が遠ざかる。まるで引き剥がされるように、急速に。

 エリンは周囲を見渡した。辺りは真っ白で、何もない。誰もいない。

 雪山に戻ってきたのかと思ったが、違った。

 手を伸ばしてみると、見えない壁にぶつかった。冷たくて固くて、とても壊れそうにない壁。


 壁に片手をつけたまま、エリンはしばらく歩いてみた。切れ目や曲がり角があるかと思ったのだが、壁はひたすらに続くばかり。


(せっかく、過去の手がかりを掴めそうだったのに)


 エリンは落胆する。先程は確かに、幼い自分のすぐそばに誰かがいた。けれど気配は霧散して消えてしまった。


『……ン! エリン! 聞こえますか』


 ずっと遠くの方からラーシュの声がした。方角は分からなかったけど、エリンは返事をしてみた。


『はい! 私はここです、ラーシュさん!』


『良かった! エリン、申し訳ない。僕のミスです。あなたを心の深層に置き去りにしてしまった。まさかこの階層が、ここまで深い段階になっているとは思わなかったんです。

 今、あなたを引き上げます。僕の声が聞こえる方へ、ゆっくり来て下さい』


 ラーシュの声を聞いているうちに、方角も見当がついてきた。

 エリンは壁から手を離して、声の方へと歩いていく。

 徐々に景色が変わっていく。見覚えのある村と住み慣れた教会、司祭と子どもたちの姿が流れていく。

 そうしてまた、あの白い獣の面影が見えて……


「エリン!」


 目の前には、セティの心配そうな顔。

 見ればエリンは雪穴のテントの中に横たわっていて、エインヘリヤルたちが心配そうに覗き込んでいた。


「ええと? 私は、どうしたんでしょうか」


 エリンはぼんやりと言った。寝起きのような状態で、頭が回らない。

 エリンの頭をそっと撫でて、ラーシュが答えた。


「エリンの心の深い部分へ、僕と一緒に降りていきました。けれど、途中で不思議な壁に引っかかってしまって。

 人の心に触れていて、あんな壁があったのは初めてです。壁は僕を弾き飛ばして、エリンを置き去りにしてしまいました。本当に、申し訳なかった」


 ラーシュは泣きそうな顔をしている。大人の男性が涙を見せるのが可笑しくて、エリンはつい小さく笑った。


「大丈夫です。こうやって、無事に戻ってこられたから。でも、何でしょうね。あの壁は」


「分かりません。エリンの障壁の能力に関係しているかもしれませんね」


 うなずいたラーシュを見て、エリンは思い出した。


「それと、あの。私がいくつかの能力を使うのは、どうしてでしょうか」


「それも……分かりません。僕が視た限りでは、発火、念動力、超回復、瞬間移動、そして障壁――」


 シグルドたちは黙って聞いている。恐らくエリンが戻ってくる間にラーシュが話していたのだろう。

 能力に関する部分は共有すると決めてあったので、エリンもその点に不満はない。ただ、彼らがどんな反応を見せるか不安だった。


(この人たちにまで化け物扱いされて、追い出されたらどうしよう)


 エリンの押し殺したような目に気づいたかどうか、シグルドが言う。


「すごいな。現在確認されている主系統をほぼ網羅しているじゃないか。エリンは神の落し子かもしれん」


「確かに。天才のレベルを超えているわ。エリン、あなた、人間じゃなくて神々の一員や、ヴァルキリー様だったんじゃない?」


「ねえねえ、透視は? エリン、透視できる? 俺と一緒の能力」


 彼らの態度に悪意や嫌悪は感じられない。エリンは意外で、目を瞬かせた。


「そうなると、可能な限り早く本部に行くべきですね。正直、僕らの手に余る事態です」


 ラーシュが言った。彼だけはどこか慎重に、エリンから距離を開けている。

 彼の微妙な態度に気づいたのかどうか、シグルドが答えた。


「そうだなぁ。ただ、この雪だ。今すぐ一直線に本部を目指すより、春の雪解けを待った方がいいんじゃないか? 吹雪や雪崩に巻き込まれたら遭難してしまうだろう」


「そうだ、そうだ。あのスノーシュー、めちゃくちゃ歩きにくいもん。ベルタ姉の瞬間移動も使いすぎはできないし、今まで通り春を待とうよ。で、その間にエリンは訓練をして、俺と友だちになるの!」


 セティが調子の良いことを言って、ベルタに頭をはたかれた。


「セティの言い分はともかく、雪の季節に無理な移動を避けるのは、私も賛成ね。冬は白獣の動きが活発になる。被害を放置して行けないわ」


「……シグとベルタがそう言うのでしたら」


 ラーシュが肩をすくめて賛同し、方針が決まった。


「あの」


 さっさと決まってしまった話の横で、エリンは戸惑っていた。

 声を上げると注目が集まって、怯んでしまう。


「どうしたの、エリン?」


 ベルタが優しく促してくれる。エリンは意を決して言った。


「私のことが、気味悪くないですか。皆さんと違う能力で、皆さんと違う心の持ち主です。化け物とは……思いませんか……」


 語尾は小さく消え入りそうになってしまった。


「え、なんで! 気味悪いわけないじゃん。今までにないタイプの能力者ってことでしょ? すげーって思っただけだよ!」


「そうだね。正直に言えば、通常のエインヘリヤルの能力を超えているように思うが。それはつまり、エリンが神々やヴァルキリー様に近しい存在ということだ。喜ばしいことであって、気味が悪いわけがない」


 と、シグルド。ベルタも続ける。


「エリン。私たちエインヘリヤルは、能力が目覚めた頃は差別を受けていた人も多いの。ミッドガルドみたいにオーディン様のお膝元だったり、身内に先輩のエインヘリヤルがいればともかく、そうでなければ化け物扱いされることも多かった。

 だからこそ私たちが、あなたを偏見の目で見ることはないわ。変わり種ではあるから、本部で確認が必要だけどね。

 どんな力があったって、正しく使えばいいのよ。主神オーディンのために、正義のために」


「皆さん……」


 エリンはペンダントを握った手で、胸を押さえた。


「だから、何にも変わんないよ。冬の間は訓練しながら白獣を狩って、雪が解けたらミッドガルドまで行こうぜ!」


 セティが満面の笑みを浮かべて言う。シグルドは苦笑しながら続けた。


「しかし今までにない能力者となると、訓練はどうしたものかなぁ。ごく基礎的な部分だけやって、あとはエリン自身に任せる他なくなってしまう。まったく、先輩として隊長としてふがいないよ」


 エリンは身を起こして言った。


「私、頑張ります。少しでも能力を使いこなせるようになって、役に立てるように頑張ります!」


「そんなに気張らなくていいわよ。一人ではできないことをやるために、チームを組んでいるんだからね」


 ベルタがエリンの茶の髪を優しく撫でる。


「ありがとう、ございます……」


 エリンの心に安堵と暖かいものが満ちる。


 だからこそ、彼女は見落としてしまった。

 テントの片隅、他の面々から一歩引いた場所でラーシュが何か考え込んだ様子でいるのを。


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