第六章 ムスペルヘイム攻防戦

第40話 南へ


 成層圏の天気はいつも変わらない。空を覆うはずの雲は下にあって、常に太陽が輝くからだ。

 オーディンはその変わらぬ紫天を背景に、玉座に座っている。


「ロキにはまんまと逃げられてしまった。全くあいつは、昔から逃げ足だけは早い」


 玉座の下、十段ほどの階段の下の床には、男性が一人いる。うずくまるように跪礼して、深く頭を垂れている。

 黒い甲冑のような衣装を身に着けた彼の頭髪は、不自然なまでの白。老人の総白髪よりも色が抜け落ちた、風化した骨のような色だった。


「お前では到底、アース神族の代わりは務まるまいが。せめて『あの娘』を引きずり出して、ここへ連れてくるといい。我が下僕エインヘリヤルとして、そのくらいの働きはしてもらおう。……なぁ、シグルド?」


「――はい。オーディン様」


 彼の声もまた、起伏を欠いて乾ききったものだった。

 その声は、壮麗にして空虚な部屋に響いて消える。


「ヴァルキリーの一隊をつけてやろう。シリューダ……は、今回の騒動で死んだのだったか」


 オーディンはヴァルキリーの名を呼んで、肩をすくめた。


「まあ、いい。シリューダがいないのであれば、フォーレスを。――フレイよ、五十体ばかり用意してやれ」


「かしこまりました」


 いつの間にか人影が増えていた。ヴァルキリーによく似た金の髪の青年である。彼もまた、獣の仮面をかぶっていた。

 彼はシグルドの横に立って、オーディンにうやうやしく頭を下げる。


「さぁシグルド、行こうか。我が妹たちがきみを待っているよ」


 フレイの口調は表面ばかりは優しげだったが、侮蔑と嘲笑が透けて見えた。

 彼はシグルドの髪を撫でる。かつては灰色で、今や全ての色が抜け落ちてしまったそれを。わざとらしく、子供をあやすように。


「仰せの、ままに」


 シグルドが顔を上げる。

 その両の瞳は、脳に蓄積したバナジスライトの屈折光を受けて、暗い真紅に輝いていた。







 エリンたちは一路、ムスペルヘイムを目指している。

 ミッドガルドを脱出してから数日が経過しても、アースガルド側の追撃はなかった。

 スルトいわく、


「どうせ行き先は割れているからな。俺らが帰り着いてから、まとめて叩くつもりなんじゃね?」


 とのことである。


 セティとベルタは意識を取り戻した。まだ体が思うように動かず、能力の発動もぎこちなかったが、それでも起き上がって現状を理解した。


「ヴァルキリー様、いいや、ヴァルキリーの奴らが精神感応テレパシーで俺たちの心を読もうとした時、ラーシュ兄がかばってくれたんだ」


 移動中、車両に揺られながらセティは言った。


「ヴァルキリーの精神感応テレパシーはすごく強引で、まともに受けたら心が壊れそうだったよ。けど、ラーシュ兄が負担をこっそり引き受けてくれて……おかげで、俺とベルタ姉は軽症で済んだ」


 ベルタは未だ目覚めないラーシュの額に手を当てて、じっと彼を見つめている。

 エリンは思う。

 ロキが事前に施していた偽の思考統制が壁となって、ヴァルキリーの精神干渉を相応に阻んだ。その上でラーシュが自分を犠牲にして、セティとベルタを守った……。


「みんな、ごめんね。私がみんなと一緒にいたばかりに、こんなことになってしまった」


 銀の髪のエリンが言うと、セティもベルタも首を横に振った。


「違うよ。悪いのはエリンじゃないよ。俺たちの言い分をちっとも聞かないで、いきなり傷つけてきたあいつらのせいだよ!」


「ええ、その通り。あんな奴ら、正しい神様であるはずがない。私が間違っていたわ……」


 ベルタがうなだれた。


「おい、元・エインヘリヤルさんよ。通信が入ってる。聞いてくれ」


 運転席のスルトが言って、通信装置を投げてよこした。小さな板のような装置に、人影が映っている。

 エリンの見知った顔だった。最初にミッドガルドの地下基地に連れて行ってくれた、無精ひげのゼファーである。

 ところが、彼の姿を見たベルタが声を上げた。


「父さん!?」


『よぉ……、ベルタ。意識が戻って良かったな』


 小さなモニタの向こうのゼファーは、何とも言えない表情をしている。背景は暗くて見えにくかったが、どこかの街のようだ。


『先に用件を言うぞ。セティのじいさんを確保した。俺と一緒に別ルートでムスペルヘイムへ向かう』


「じいちゃんがそこにいるの?」


 セティがモニタを覗き込んだ。すると映像が横にずれて、白いひげを生やした初老の男性が映った。


「じいちゃん! 無事で良かった!」


『セティ、お前も無事だったか……。良かった、本当に……』


 ひげで分かりづらいけれど、セティの祖父は相当やつれているようだ。


『あれから兵士たちが我が家に来て、家探しをしていった。わしも尋問されて、連行されかけたところをゼファーが助けてくれたよ。今は他の街にいる。ムスペルヘイムは悪魔の国と思っていたが、まさかアースガルドの神々があんなことをするなんて……』


 画面は再びゼファーを映した。


『あまり時間がない、ひとまずは無事の報告だ。じいさんも元気だから、心配するな。じゃあ、またな』


 ゼファーがそう言って、画面はブラックアウトした。


「えっと……ベルタさんの、お父さん?」


 エリンが上目遣いにベルタを見た。以前、ベルタと父は関係が上手く行っていないと聞いたことがある。


「そうよ。あのクソオヤジ、何やってんのよ。正直、この件が一番の驚きだわ」


 ケッ、とベルタは言った。たいそうガラが悪い。


「ゼファーは、何年か前からムスペルヘイムのスパイをやってくれてんだよ」


 運転席のスルトが言う。


「その前は窃盗団の頭領だったと聞いてるが」


 ベルタが答える。


「ええ、そう。チンケなコソ泥で、まだ子供の娘を犯罪の手先に使うようなクソッタレよ。私は瞬間移動テレポーテーションの素質があったおかげで、能力に目覚める前から感覚が鋭かった。それをあいつは、盗みに利用した。そのうち親子ともども逮捕されて、刑務所で暮らしたわ。

 で、めでたく私がエインヘリヤルになった時、親だからって恩赦が出て野放しになったわけ。まさかムスペルヘイムと繋がってるとは、思ってもみなかったけど」


「どうやら刑務所にいた間に、アースガルドの裏の面を知ったらしくてな。娘がエインヘリヤルになったと、ずいぶん心配していたぜ。それでムスペルヘイムと接触してきたという経緯だ」


 ベルタは黙った。彼女の表情は複雑なものが入り混じっている。

 その顔を見て、エリンはゼファーとよく似ていると思った。最初、ゼファーを見た時に見覚えがあると感じたが、ベルタの面影だったのだ。


「……今は、うちの父のことまで考える余裕がないわ。もっと大変なことがあるから」


 ベルタは目を閉じたままのラーシュに視線を戻す。

 エリンも今まで、何とかラーシュの心を治そうと試みてきたが、未だ成功の道筋が見えない。

 それでも彼女は言った。


「治療を続けます。私、諦めません」


「うん。俺にもできることがあったら、教えて」


 セティがうなずく。


 彼らを乗せて、車は南へと走っていく。

 風景は草原や森林から徐々に荒れ野になり、さらに乾燥した岩砂漠へと変わっていった。


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