第42話 末期症状


 一同が墓の前から立ち去ろうとした時、影が動いた。


「ロキさん!」


 いち早く気配を察知して、エリンが声を上げる。

 振り返れば、ヘズの墓石にもたれかかるようにロキが立っていた。


「無事で良かった。帰りが遅いから、心配してました」


 エリンは近寄ろうとしたが、ロキは首を振る。


「すまない、エリン。シグルドを連れ帰るのに失敗してしまった」


 エリンの足が止まる。

 最悪の事態を予想して、彼女は問いかけた。震える声で。


「まさか、もう、シグルドさんは……?」


「いや。死んだわけではない。生きている」


 エリンはほっと息を吐くが。


「だが……あれは、もはや生きているとはいえぬかもしれん。ユミル・ウィルスの病状が末期に達して、しかもオーディンが念入りに意志を奪った。あそこまで急速に病が進行するとは、予想外だった――」


「そんな!」


 セティが叫んだ。


「ラーシュ兄が倒れたままなのに、シグ兄までなんて、嘘だろ! 嘘だって言ってよ!」


 彼はロキに走り寄って、胸ぐらをつかむ。普段のロキであればあしらっただろうが、されるがままになっていた。

 ベルタはエリンの背後で、呆然としたまま動けない。


「病状が末期に達するとは、どういう意味ですか」


 青ざめながらもエリンは尋ねた。セティが手を止める。

 疑問は解かねばならない。それが、少しでも手がかりになるのであれば。


「……白獣のようなものだよ。体毛から色素が完全に抜け落ちて、脳のバナジスライトが肥大化する。肉体はバナジスライトと能力の負荷に耐えきれず、まず正気を失う。次に全身が機能不全を起こし、やがて死を迎える」


 エリンは拳を握り締めて、必死で考えた。


「白獣。それならば、私の血を飲ませるのは効きますか? フレキが正気を取り戻したように、シグルドさんも」


「無駄だな」


 だが、ロキは即答した。


「人間は獣よりも能力が強く、病はゆっくりと進行する。ゆえに末期に達した場合は、ユミル・ウィルスの抗体を与えるだけでは効果がない。もっと強力な特効薬を与えればあるいは、というところだが……」


「特効薬! そんなものがあるの!?」


 エリンはわずかな希望にすがる気持ちで言った。


「それを与えたとて、助かるかは五分五分。それに、その特効薬なるものは……」


 ロキは言葉を濁した。服を掴んだままのセティを払い除けて、今度こそ墓石の脇に立つ。


「……いいや。シグルドの身を確保して、薬を与えられる状況になれば、与えてやろう。どうやらオーディンは、彼のバナジスライトを限界まで育てるつもりのようだ。人間として初の第三段階の能力者、奴にとっては格好の実験動物なのだろうさ」


「…………」


 実験動物。人を人とも思わない言葉に、エリンは奥歯をギリ、と噛んだ。

 ロキの言い分が大げさなだけだと思いたい。けれど彼女は、ラーシュが精神にひどい損傷を負ったのを間近で見た。アースガルドの、オーディンの悪意を強く感じざるを得なかった。


「お前たちの状況を教えてくれ。この透視能力者クレアボヤンサーの小僧がいる以上は、成功したのだろうが」


「あぁ、分かった。じゃあ俺から話すぜ。立ち話も何だ、中に入ってくれ」


 スルトが答える。

 そうして一行は墓の前を後にする。

 最後尾、人間たちが先に進むのを眺めながら、ロキはそっと墓に語りかけた。


「ヘズよ。私はお前のようになれるだろうか。この期に及んで我が身の保身を考える、愚かな私が……」


 その問いは、静かなオアシスの空気に包まれて、誰の耳にも届かずに消えた。







 ロキは一通りの状況を聞くと、ラーシュの様子を見に行った。

 エリンの治療をもってしても意識が戻らない以上、よほどの損傷なのだろうと彼は言った。


「なるほど」


 医務室のベッドで眠るラーシュを見て、ロキは腕を組んだ。


「この精神感応者テレパシストも、ユミル・ウィルスの病状が進みつつある。この髪を見ろ」


 彼はラーシュの髪を一房、つまみ上げた。一見すると元々の薄茶だったが、裏側に白髪が混じっている。

 じわじわと進行していた症状を目の当たりにして、ベルタが息を呑んだ。


「相当に無理をしたようだな。能力を限界以上に酷使したのだろう」


 ロキは指先でラーシュのまぶたを開けた。その先にあったのは本来の茶色ではなく、赤の瞳。真紅というほどではなく赤茶色ではあったが、確実に色が変わってきている。


「私の血はまだ効きますか?」


 エリンが尋ねる。


「無理だ。中途半端な処置をしたところで、何の解決にもならない。むしろこの段階での抗体投与は、逆効果にすらなりかねない。……特効薬を使おう」


「え? ロキのおっちゃん、薬持ってるの?」


 セティが声を上げる。ロキは不満そうに少年を見た。


「おっちゃんとは何だ、おっちゃんとは。失礼な呼び方をするな」


「だって神様だから、だいぶ年寄りなんだろ。じゃあ、ロキじいちゃんか?」


「……じいちゃん……」


 微妙にへこんだ様子のロキをあえて無視して、エリンは話を進めた。


「薬はどこに?」


「ここにある」


 ロキは手のひらを上に向けた。

 すると小さな結晶体がふわりと浮かび、赤く輝く。方形をした、人工的な印象を受ける宝石。


「――バナジスライト!」


 セティとエリンが同時に叫んだ。

 その赤い宝石は、白獣のものとは比べ物にならない純度の光を放っていた。

 サイズは小さい。指先ほどだ。

 けれどあまりにも濃い光を内包しているせいで、光そのものが結晶化したような錯覚さえ覚える。

 エリンとセティが今までに見たどんな結晶体よりも、白獣はおろか人間の能力者よりも、はるかに深く複雑な光を含んでいた。


「ロキさん。これは『誰の』バナジスライトですか?」


 まぶしさに目を細めて、エリンが尋ねる。

 セティは目を見開いて透視していたが、やがてうめき声を上げてうずくまってしまった。

 そんな彼に仮面越しの視線を投げて、ロキが言う。


「あまり視ようとするな。これは欠片とはいえ、深淵領域化したバナジスライト。人間の能力者程度が認識するには、負荷が高すぎる」


 エリンの問いへの答えはない。わざとだ、と彼女は感じた。何か言えない、言いたくない理由がある。

 エリンがさらに尋ねようとした時、その動作をさえぎるようにロキは一歩踏み出した。

 彼はラーシュの頭の上で、軽く手を握る。

 すると赤い光が細かな砂のように、極低温で降る雪のように、ゆっくりとラーシュに降り注いだ。

 光の粒はラーシュの皮膚や髪に触れると、吸い込まれるように消えていく。

 やがて全ての光が注がれて、ロキは手を戻した。


「これで症状は改善するだろう。じきに目を覚ます。完全に力を取り戻すまでは、多少の時間がかかるが」


 見れば、真っ青だったラーシュの顔色にいくらか血色が戻っている。

 ベルタがベッドの上の手を握って、泣き笑いの表情を作った。


「ありがとう、ロキ。あなたのこと、なかなか信用できなかったけど、今は違う。心から感謝するわ」


「いや……」


 ロキはどこか困ったような様子で、軽く首を振った。

 エリンとセティも感謝を伝えると、彼は息を吐いた。


「必要な処置だから、やった。それだけのことだ。……さすがに疲れた。少し休みたい」


 そう言って部屋を出て行ってしまった。

 ロキにとってムスペルヘイムは馴染みの場所。案内は不要であるらしい。

 エリンはベルタと一緒に、ラーシュの手を触る。弱々しかった心臓の鼓動が、今は少しずつ力強さを取り戻してきている。

 脳の奥で濁っていたバナジスライトが、再び光の反射をしている。

 これなら大丈夫と、エリンは思った。

 そして同時に、特効薬として使われた宝石は、一体誰のものなのだろうと考えた。

 深淵領域化という聞き慣れない言葉の、赤い結晶体がどこから気たのかと……。


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