第25話 夜の湖で
今日はもう帰ろう、と兄さんが言うので、私達はクルールィに跨り来た道を戻った。先程の街に戻るとあの時の見物人の一人を見掛けたので、魔獣は退治したからもう安心していい旨を伝えた。すると、本当に日暮れ前にやっちまったのか、と彼は驚きの声を上げた。
街を出てからはのんびりとした足取りで田舎道を進んだ。夕焼け空は段々と夜の顔を見せてくる。朝食を食べた湖が見えてきた辺りで、後ろから兄さんが話し掛けてきた。
「今日は……楽しめたか?」
不安がるような、遠慮するような、そんな声だった。まだ私に怪我をさせた事を後悔しているのだろう。
「うん、楽しかったよ。初めて行く市場で、初めてあんなに沢山買い物をしたし……魔獣退治も、いい経験になった。ありがとう、兄さん」
「そうか。それなら……よかった」
兄さんは安堵するような息を吐いた。
「ワタシは、何よりもお前の事を大切に想っている。だから……お前に嫌われたり、お前がいなくなったりしたらと思うと、怖いんだ」
兄さんはクルールィを止めた。朝食を食べたのが、丁度この辺りだったと思う。赤と黒が混じり合う空の下、湖は幻想的な煌めきを見せていた。
「お前は……お前を危険に晒したワタシを、それでも好いていてくれるか?」
背後にいる兄さんの顔は見えない。兄さんは今、どんな顔をしているのだろう。心配、後悔、不安、恐怖、自責の念……。そうした負の感情を綯い交ぜにしたような顔だろうか。きっと笑顔ではない。ならば私はそんな兄さんを、笑顔にしたい。私は兄さんが兄さんである限り、兄さんを嫌いになるなんて事はないのだから。
「兄さん。私が好きなのは、兄さんだけだよ」
振り向いてそう答えると、一瞬強張っていた様に見えた兄さんの顔には、すぐに柔らかな笑みが浮かんだ。
「ありがとう、スティル。ワタシも、お前だけが好きだ」
そう言って兄さんは、そっと私を抱き締めた。ああ、やっぱり兄さんに抱き締められていると安心する。ずっとこうしていたい。
「スティル。もう少しだけ、ここにいないか。湖に映る星空も、とても綺麗なんだ。お前と一緒に見たい」
「うん、いいよ」
兄さんも私と同じ気持ちなのかと思うと嬉しくてたまらなかった。私達はクルールィから降りて、街に戻った時に買っておいたパンを一緒に食べながら移りゆく空を眺めた。
闇が侵食していく空に、少しずつ星が瞬き始めた。半分欠けた月も輝いている。梟の鳴き声が聞こえる。夜空を映した湖が、静かな波音を立てている。ふと隣に座る兄さんを見ると、それに気づいた兄さんがこちらを見てふっと笑った。
「どうかしたのか?」
「ううん、どうもしてない。けど……」
「けど?」
私はその続きを言うのが少し恥ずかしくなって、湖の方を向きながら答えた。
「今、幸せだなって、思ったの」
兄さんと過ごす、穏やかな時間。それは私にとって、何よりも価値のあるものだ。
「ああ。ワタシも幸せだ」
兄さんは私の帽子を外して、その中にしまわれていた髪を解き始めた。
「やはりお前の髪は綺麗だ。今日お前に出会った奴らは全員、この髪を見る事ができなかった訳だな。ふっ。この事を知ったらさぞ悔しかろう」
何故か得意気にそんな事を言いながら、兄さんは私の髪を指で梳いていく。
「どうしたの、兄さん」
今度は私が聞く番となった。
「いやなに。今日のお前の格好がそれでよかったと思っているだけだ。気にするな」
「気になるよ」
もう、と私は頬を膨らませた。
「お前が女だと分かる格好のままだったら、大変な事になっていたぞ。お前はきっと楽しめていなかっただろう」
「そんな事……」
ない。と言おうとして、思いとどまった。以前兄さんが言っていた事を思い出した。
――誰だってまずは外見で判断する。男か、女か。若いか、老いているか。見た目が綺麗か、汚いか。お前の外見は、女で、若くて、綺麗だ。大抵の男はそれで満足する。それだけで満足できなければ自分のものにしようとする。
私が女だと分かる格好で一人で市場を巡っていたら、“それだけで満足”できない人が現れた可能性もあっただろう。そうなっていれば、楽しかったなんて思えない。
「……うん。そうだね。ありがとう、兄さん」
「お前の為にやったまでだ。お前の幸せが、ワタシの幸せだからな」
(……兄さんてば)
恥ずかしい事を平気で言ってくる。今が夜でよかった。顔が赤くなっているのを見られずにすんでよかった。
「そろそろ帰るか。朝が早かったから、もう眠いだろう。寝ぼけてクルールィから落ちたら洒落にならんからな」
「うん。今日はありがとう、兄さん」
「ああ。またその内、二人で出掛けよう。演劇絵画の新作を観に行くなんてどうだ」
「いいね。行こう」
他愛もない会話ではあるが、それでいてまだ見ぬ幸せな未来に想いを馳せながら、私達は帰路へ着いた。
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