第38話 不安な日々
この日は一日中、心ここにあらずといった状態だった。食事をすればフォークを落とし、魔法のレッスン中はセランに何度か注意され、廊下を歩けば人にぶつかりそうになり、ついには兄さんからあらぬ疑いを掛けられた。
「昨日、奴がお前に何かしたのか」
兄さんは私を部屋に連れ込んで詰問してきた。私の両肩を掴み、いつも以上に鋭い目で見てくる。兄さんの言わんとする事をすぐに理解した私は急いで否定した。
「昨日は観劇しただけ! 馬車の中でも会話をしてただけだから、兄さんが考えてるような事は何もしてない!」
「本当か? もし無理にやられたのだとしたら」
「だから、違うって! 本当にそうじゃないの……」
「ならば何があったんだ。今日のお前はどう見てもおかしい」
「それは……」
どうしよう。兄さんに言うべきだろうか。私が一年以内に死ぬかもしれないと? だが兄さんに相談したところで対策を立てられるものなのだろうか。それに兄さんに必要以上に心配を掛けたくない。誰だっていずれは死ぬものだが、この話をすれば兄さんが何をし始めるか全く予想がつかない。兄さんの部屋に私を閉じ込めておくとか、どこへ行くにも兄さんが付いてくるくらいの事は平気でしそうだ。
「ワタシには話せないような事か?」
私が黙って俯いていたので、兄さんが心配そうな声で訊いてきた。
「……うん」
兄さんには申し訳ないが、この話は黙っておく事にした。
「お前が話したくないのであれば無理には聞かない。だが、昨日も言ったがワタシはお前の味方だからな。何か困った事があれば、いつでもワタシを頼るんだぞ」
「うん」
私を安心させるように、兄さんが優しく抱き締めてきた。兄さんの腕の中で、私はゆっくりと深呼吸した。落ち着く、兄さんの匂い。
「兄さん」
「何だ?」
本当に兄さんと一緒には暮らせないの?
兄さんと一緒に暮らす事ができれば、私が早く死んでしまう事は無い。
私をこの家から連れ出して、どこか遠くへ連れていって。
「……」
言おうとしたけど、兄さんに迷惑を掛けたくなくて、兄さんに負担を掛けたくなくて、いつまで経っても兄さんに我が儘ばかり言いたくなくて、それでもやっぱり兄さんにはずっと側にいてほしくて、色々な感情が混ざり合って、言葉にしようとしても支離滅裂になりそうで、結局は何も言えなかった。
「ありがとう」
だからせめて、感謝だけは伝えたかった。
「ああ」
兄さんが優しく頭を撫でた。
それから暫くは不安が付きまとったが、そのせいで失態を犯すような事は無かった。兄さんには事あるごとに体調の心配をされたが(どうも月のものが来たと思われたようだ)、その時は正直に調子がいいとか悪いとか答えた。調子が悪いと答えると、痛みを和らげる魔法薬をくれた。調子が悪いのは身体ではなく心なのだが、それでも飲むと少しは気分も良くなった。
もう何日かすると心の落ち着きも戻ってきて、思い詰めすぎだと考える余裕も出てきた。あれから夢にムルも出てきていない。言葉の意味を問い詰めたくもあるが、聞いてしまえば今度は激しく取り乱してしまうかもしれないから、かえってそれでよかったのだろう。いつもの調子に戻った私を見て、兄さんも安心している。大丈夫。兄さんといる間は大丈夫。と自分に言い聞かせる。
ウェルグと共に観劇してからは、手紙のやり取りをするようになった。彼が自作の詩を送ってきた事がきっかけだ。何が言いたいのかさっぱり分からず、兄さんに見せても首を傾げたので、二人で批評を書いて送ったら書き直したものが解説と共に送られてきた。『花鳥の一生』の花鳥の心情を彼なりに考えて詩で表現したものらしい。ならばと思い、彼を真似て自分でも花鳥の心情を考えて詩で表現して送ってみたら、長々とした感想が返ってきた(要約すれば、僕よりも君の方が上手だ、というものだった)。そうやって手紙を送り合うようになったのだ。
たまに兄さんも詩や批評を書いて私のものと一緒に送るが、その都度彼からは“ロクィルの詩と批評は送らなくてもいい”という内容を遠回しに書いた手紙も添えられてくる。もちろん兄さんはそれを無視し、彼の詩の批評を毎回書いては私の手紙に忍ばせる。その間も何度かお互いの屋敷に訪れたが、彼の屋敷へ行った際に「頼むからロクィルには手紙を見せないでくれ」と懇願された。でも勝手に見てくるのだから、私にはどうしようもない。
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