第8話 誕生日の朝
「――っ!」
跳ね起きると見慣れた光景が広がっていた。自分の寝室と、傍らに控えるヴァンスの姿。
「お嬢様、おはようございます。……随分うなされていたようですが、大丈夫ですか?」
ヴァンスが心配そうに私の顔を覗き込んできた。
「あ……おはよう、ヴァンス。……ねぇ、ヴァンス。ムルって名前の神様、知ってる?」
「ムル、でございますか? いいえ。聞いたこともございませんねぇ。カタ神話の中で登場した覚えはございませんので、他の神話の神様ですか? そのムル様が、どうかなさいましたか?」
「夢で、ムルって名乗る女の子が出てきて……」
死を司る神だと言った。なんて正直に言ったら、ヴァンスを余計に心配させてしまうだろう。折角の誕生日なのに、朝から心配ばかり掛けさせたくない。
「自分は神様だって言ってたんだけど、聞いた事もない名前だったからどこの神話の神様なのか気になったの。それだけ」
「そうでございますか……」
心配させまいと私は笑顔を見せたが、うなされていたようだから簡単には安心してくれない。
「それよりもヴァンス。今日は何の日か分かってる?」
話題を変えようと、私はヴァンスに悪戯っぽい笑みを浮かべながらそう聞いた。するとヴァンスは「勿論ですとも」と答えた。
「お誕生日おめでとうございます、お嬢様」
「ありがとう、ヴァンス」
あれはただの夢だ。死を司る神を名乗る者が夢に現れたから何だと言うのか。私の日常はまだまだ続く。そう自分に言い聞かせて、私は着替え始めた。
今年の誕生日は、夢の中でもだが、現実でもあまりいい始まり方ではなかった。朝食の席では父さんも母さんもやたらと結婚の話を持ち出してくる。曰く、結婚は良いものだ。女の幸せは、良い男の人と結婚して子供を産み、幸せな家庭を築く事だ。ウェルグは容姿も性格も申し分ない。だからお前は幸せ者だ。
「聞くに堪えんな」
ふん、と鼻を鳴らして両親の話を遮ったのは兄さんだった。
「一口に女と言っても、その思考回路は千差万別。全員が全員、結婚して子供を産む事が幸せだと思っているとは限らないだろう。女の幸せではなく、スティルの幸せが何であるかを考えたのか?」
兄さんは父さんを睨みつけた。兄さんの鋭い眼光に睨まれると大抵の人はそれで怯むが、兄さんの成長を生まれた時から見ている父さんには効かない。そもそも兄さんの目の鋭さは父親譲りだ。
「ではお前にはスティルの幸せが何か、分かるのか?」
「ワタシはスティルではないのだから分かるものか。それは本人に聞くべき事だろう。スティル。お前にとっての幸せは何だ?」
兄さんと父さんの鋭い目付きが一斉に私を向く。二人共に睨まれると、流石に私でも気後れする。何で誕生日の朝からこんな想いをしなければならないのだろう。
「わ、私の、幸せは……」
私の幸せとは、何だろうか。今まで真剣に考えた事は無かった。少なくとも何処かの誰かと結婚して子供を産む事を、私は幸せだとは感じない。ならば今まで何に幸福を感じていただろう。考えて思い浮かぶものは……兄さんの姿だ。
「私の幸せは、お兄様と一緒にいる事です」
「だそうだ。さあ行くぞスティル」
「え? あ、待って」
突然兄さんは私の腕を掴み、無理矢理椅子から立たせて食堂から連れ出した。後ろから父さんの怒鳴り声が聞こえてくるが、お構いなしに兄さんはずんずんと歩いていき、階段を上り、兄さんの部屋までやってきた。部屋に入り扉を閉めると、やっと兄さんは私の腕を離した。
「兄さんてば、急にどうしたの」
怒りを収めるように部屋の中を行ったり来たりする兄さんに私は話し掛けた。
「すまない。だが……あの場にいるのが我慢できなくて。お前もあんな事を言われるのは嫌だろう」
「うん。そうだけど……」
兄さんと父さんが口論する事は珍しい事ではない。頑として考えを変えようとしない父さんに腹を立てた兄さんが部屋を出ていく事も。でも、私を一緒に連れ出すのは初めてだ。
「それに、お前の様子が朝からおかしいのが気に掛かっていたんだ。何かあったのか? 悪い夢でも見たのか?」
「何でそれを……あ」
慌てて口を抑えたがもう遅い。あの夢の事を頭の隅に追いやろうとしていたが、兄さんにはお見通しだった。兄さんは私の両肩を押さえた。
「悪夢を見たなら、その内容をワタシに話してくれないか。嫌な事を自分一人で抱え込む必要は無い。誰かに話すだけでも、気分は多少紛れるものだ」
ああ、兄さんは真摯に私の事を考えていてくれる。それなのに私は隠そうとしていたなんて……。
ソファに促された私は、座りながら今朝見た夢の話を兄さんに語った。ムルと名乗るボロを纏った少女が現れた事。その少女が“スティル”という名前には呪いが掛けられていると言った事。少女が己を死を司る神だと言った事。
「ねぇ、兄さんはムルっていう神様なんて聞いた事ある?」
「いや……聞いた事が無いな。カタ神話の死の神はリアだし、他の神話でも、思いつく限りではムルなんて名前の神はいないはずだ」
「じゃあ、あれはやっぱりただの夢だったのかな……」
ただの夢。そう思おうとしても、夢の中で感じた嫌な予感は今も確かにある。その予感はただの夢ではないと告げている。不安になった私は、兄さんの腕に自分の両腕を絡ませた。兄さんの肩に頭を預けると、兄さんが頭を撫でてきた。
「ただの夢だと割り切れないから不安を感じているんだろう? ムルについてはワタシが調べてみる。お前に掛けられた呪いなんて、ワタシが解いてやる」
「ありがとう兄さん。……でも、呪いを解くなんて無理だよ」
「何故だ。ワタシが信じられないのか?」
兄さんが頭を撫でる手を止めた。兄さんは自分の力を馬鹿にされたり、理解されなかったりするのが嫌なのだ。今の私の発言にも怒ったに違いない。
「違う。そうじゃないの。だって……この世界に生まれた事、兄さんの妹として生まれた事も、呪いみたいなものだもん」
「……どういう意味だ?」
「私ね、時々思うの。もし兄さんが私の兄さんじゃなかったら、って。私と兄さんが兄妹じゃなかったら、兄さんと結婚できるのに」
自分の顔に血が上っているのが分かる。この事はずっと考えていたが、兄さんに話して聞かせたのはこれが初めてだ。
「スティル……」
兄さんは頭に乗せていた手を離して、私の頬に添えた。そのままゆっくりと私の顔を持ち上げ、兄さんの顔と向き合わせた。兄さんの目は、どこか悲しそうだった。
「ワタシは、お前と兄妹で良かったと思っている。もしお前が妹でなく、何処か別の家に生まれた娘だったら、ワタシはきっとお前に興味を抱いていなかった。父親の言う事に素直に従う様な娘であれば、ワタシは一切興味を抱かない。それは、分かっているだろう」
「……うん」
兄さんは婚約の話を悉く破棄しているのだし、今の私があるのは兄さんのお陰だ。つまり、兄さんの婚約者として今の私じゃない私が現れても、他の娘と同じ道を歩むだけ。
「ワタシもお前の事が好きだ。兄として、妹であるお前の事を愛している。だから、お前とワタシが兄妹でなければなんて悲しい事を言わないでくれ……」
愁いを帯びた兄さんの金色の瞳は、私の心をかき乱すのに充分過ぎる魔力に満ちていた。叶う事ならこのまま兄さんと唇を重ね合わせたい。兄さんに触れたい。兄さんに触れられたい。兄さんを全身で感じたい。耳元で兄さんに愛を囁かれたい。どれ程私が兄さんを愛しているのか伝えたい。でも、嗚呼……駄目だ。駄目だ駄目だ駄目だ。私達は兄妹なのだ。血の繋がりのある兄弟姉妹で“それ”をするのは禁忌だ。神が許しはしない。罪を犯せば兄さんとは一緒にいられなくなってしまう。兄さんに迷惑を掛けてしまう。私には兄さんが必要だ。
私は兄さんから目を逸らし、深呼吸してからこう言った。
「……ごめんなさい。兄さん」
「ああ、いいんだ。ワタシの方こそすまない。お前を疑ってしまった。……そうだ。まだ言っていなかったな。誕生日おめでとう、スティル」
私の額に、兄さんの唇が触れた。
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