第36話 彼となら……
「今日は楽しめたようだな」
もうそろそろ寝ようかという時間に、兄さんが私の部屋にやってきた。兄さんはまだ夜着に着替えていない。この時間まで何か作業でもしていたのだろう。少し服が汚れている。私がベッドの縁に腰を下ろすと、兄さんもその隣に座った。
「うん。お芝居も素敵だったし、その……彼とお話するのもね、楽しいって思う様になってきたの。だから、ね……」
私はそこで言葉を切った。できれば兄さんの前でこの話を、この言葉を言いたくはなかった。私には覆す事のできない決定事項。それでも私の意思が介在しないよりは、自分でそうすると口に出した方が、少しはマシな気がした。
「私、彼となら……結婚してもいいかなって、思うの」
「……そうか」
兄さんは呟くように言うと、私を抱き寄せた。私は兄さんの身体に身を預ける。
「私ね、兄さんの事が一番好きだし、これからも兄さんが一番だよ。兄さんとずっと一緒にいられたらいいのにって、ずっと思ってる。でも……それは無理なんだよね」
「……ああ」
兄さんが懺悔するかのように、私の頭をひと撫でする。
「突然彼を紹介されて、お前の婚約者だなんて言われた時は、凄く嫌だった。私には兄さんだけいればいいのに、何でそれを壊すの? 何で私の事なのに勝手に決められなくちゃいけないの? って」
兄さんの私を抱く腕に力が籠る。
「でも、彼と接していくうちに、彼にも優しい所があるって分かったし、今日だって彼と話している時間は楽しかった。だから、彼となら“友人”として、一緒に過ごしていけると思うの」
「……そうか」
私も兄さんの背中に腕を回した。この先兄さんと一緒にいられる時間は、きっと私が思うよりもずっと短い。今のうちに兄さんを全身で感じておきたい。
「すまない。ワタシが力不足なばかりに……」
「ううん。兄さんは悪くないよ。兄さんは悪くない」
兄さんがいれば幸せだった私の日常に、ある日突然割り込んだウェルグ。彼は私の幸せな日常を壊す厄介者だと思っていた。でも本当は、別の幸せな日常を与えてくれる存在なのかもしれない。もしくは、私がそう思いたいだけか。
それでもやっぱり、私にとっての一番の存在が兄さんである事は変わりない。兄さんと私が一緒に暮らせる道があるのなら、私は喜んでその道を進む。だから今は、その道に進む為の長い準備期間だとでも思えばいい。イズヴェラード家に嫁いだ私の元に兄さんが来てこう言うのだ。準備ができたから迎えに来たぞ、と。そんな日を夢見て待ち続けよう。
兄さんがまた私の頭を撫でた。
「お前は優しいな。優しくて強い、ワタシよりもよほどできた人間だ」
「そんな事ないよ。兄さんの方がずっと強い」
「……優しくはないのか」
「わ、私には凄く優しいよ」
「そうだな。お前以外には優しくない」
「う……それは、その……」
否定できない。
「ふっ。ほら、いつまでも泣いていないで、顔を上げろ」
「な、泣いてないもん……」
「別にワタシの服を汚していたって怒らないぞ。ここに来る前から汚れていたからな」
「……違うもん」
否定する私の声は、とても弱々しいものだった。見かねた兄さんが私を引き剥がすと、兄さんの服には濡れた跡が付いていた。
「本当にすまない。お前にばかり辛い思いをさせて。ワタシは、お前の気持ちを他の誰よりも知っているというのに……」
兄さんの指で私の涙が拭き取られた。
「もし奴や、奴の家族に嫌な事をされたら、いつでもワタシに言ってくれ。縛り首にしてやる」
「それはやりすぎだよ」
「そうか? なら別の方法で痛い目に合わせるとしよう」
「痛い目に合わせなくても、反省させるくらいでいいよ」
「ううむ……まぁ、それでお前の気が済むならそうしよう。だが、これだけは忘れるなよ」
兄さんが私の額に、そっと唇を触れさせた。
「ワタシもお前を愛している。ワタシはお前を傷つける奴を許さない。ワタシはいつだってお前の味方だ」
その言葉はゆっくりと私の中に浸透していった。兄さんの深い愛情を感じる。兄さんの固い決意を感じる。兄さんの愛で私の心は満たされた。
「ありがとう、兄さん」
「ああ。ほら、もう寝ろ。というか寝るところだったよな? 邪魔してすまなかった」
「ううん、大丈夫。おやすみ、兄さん」
「ああ、おやすみ」
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