第20話 初めての市場

 ゆっくりとした足取りで長閑な田舎道を進んでいると、街に出た。市でも開かれているのか活気に溢れている。パーティーも人が溢れているが、その賑わいとは全く別の趣がある。物を売る人、買う人。少しでも高い物を売ろうとする人に、値切らせて少しでも安く買おうとする人。皆その瞬間瞬間に必死になっているように見える。


「気になるのか?」


「うん。母さんと出掛ける時でも、こういうのは見た事が無いから……」


 出掛ける時は殆ど馬車に乗って移動している。だからこの様に馬車の通る隙間も無いような場所には来られない。


「それじゃあお前は先に降りて、市場を見て周るといい。ワタシはこいつを繋いでおける場所を探してくる。なに、大丈夫だ。この人混みでもお前の姿くらいすぐに見つけられる」


「うん。行ってくるね、兄さん」


 私は早速クルールィから降りた。早足で市場へと近付こうとする私を、兄さんが呼び止める。


「これを忘れては何も買えないぞ」


 兄さんは懐から袋を出して、それを私に放り投げた。受け取ったそれはずしりと重い。中を見ると、銅貨が大量に入っていた。


「ありがとう、兄さん」


「ああ。楽しんでこい」


 今度こそ私は市場へと向かい、兄さんはクルールィを進めさせた。


 野菜に果物、パン、お菓子といった食べ物に、色とりどりの布や宝飾品。鶏を売っているお店もある。私は初めて見る光景に目を輝かせながら人の間を縫うように歩いた。気になるものがあれば立ち止まり、それがすぐに食べられるようなお菓子であれば兄さんの分も一緒に買った。


「そこの兄ちゃん、ちょっと見ていかないかい?」


「お兄さん、採れたての葡萄だよ」


「この指輪、プレゼントにいかが? 女の子達の間で人気のデザインなんだよ」


 そんな風に私に声を掛けてくる人もいる。


(ふふ……。皆、私の事を男だと思ってる)


 兄さんの乗馬服と、この髪型のお陰だ。女の格好のままではこうはいかなかった。女の格好をしていれば、私好みではない色の布を押し付けられたり、男を誘惑するのにもってこいだという香水を売りつけられたり、男性店主にいやらしい目付きで見られたりしていたに違いない。兄さんに感謝しなければ。


「おや、可愛らしい顔のお兄さんだねぇ。あたしにもあんたくらいの息子がいるけど、これが全然可愛くなくってねぇ」


「聞こえてるよ、母さん」


 さくらんぼ入りのポルンポス(小麦粉、山羊のミルク、蜂蜜を混ぜ合わせた生地をかまどで焼いたお菓子)を売っているご婦人に声を掛けられたと思ったら、その後ろから若い男性が出てきた。恐らくは彼が息子なのだろう。不機嫌そうに頬を膨らませたニキビだらけの顔は、確かに可愛いとは言い難い。


「俺が女じゃなくて悪かったな」


「もうちょっと可愛げがあればよかったのにって話で、あんたが女だったらよかったとは言ってないだろう。ああ、ごめんねお兄さん。変な会話聞かせちゃって。お詫びにこれ一つ持っていって」


「いや……払うべきものは払わなければ……」


 ポルンポスを押し付けてこようとするご婦人に対し、私は努めて低い声を出し、兄さんの口調を意識しながら拒否しようとした。だがご婦人は「いいの、いいの」と言って拒否を拒否してくる。


「男の子は沢山食べなきゃ強くなれないでしょ。そんな細い身体じゃ守るものも守れないよ。これじゃ足りないだろうけど、食べてって」


 そう言ってご婦人は、袋にポルンポスを一個どころか二個も三個も入れだした。


「そ、そんなに沢山は」


「いいから貰っていきなよ。こういう押しつけがましい所もあるけど、母さんが作るポルンポスは他の人のより美味いから。お金はまた今度来た時に、食べたい分だけ払えばいいよ」


 息子まで加勢してきた。これでは一対二。勝ち目は無さそうだ。


「で、では、遠慮なく頂こう……」


 ご婦人から受け取った袋の中には、ポルンポスが六個も入っていた。


(いつの間に……)


「沢山食べて、大きくなるんだよ」


「……ありがとう」


 母子に礼を言い、私はその場を立ち去った。男として見られるのも、それはそれで楽ではないようだった。


 これも後で兄さんと分け合って食べようかと考えながら歩いていると、後ろから声を掛けられた。


「待たせたな、弟よ」


「……兄さん」


 弟、と呼ばれるとは思いもよらず、一拍置いてから私は後ろを向いた。


「遅くなってすまないな。行商人にその馬を売ってくれないかと言われて、少々手間取っていたんだ。売るつもりは無いと何度も言っているのに、向こうは向こうで引き下がるつもりはないと何度も言ってきて、しまいには持っている物全部と交換してくれ、なんて言い出したんだ」


「それで、どうしたの?」


「ワタシがクルールィを手懐けるのに相当苦労した事は知っているだろう? 奴がクルールィに言う事を聞かせられるか、試させたんだ。そうしたら、案の定クルールィは奴の言う事を全部無視ときた。それでやっと奴も諦めがついて、肩を落としながらどこかへ去っていったよ」


「それは災難だったね。兄さんも、クルールィも」


「ああ。ところでお前……両手で抱えている食べ物は、全部一人で食うつもりか?」


 そう言う兄さんの目は、本人は隠しているつもりだろうがどこか物欲しそうに見えた。


(お腹が空いているのかな……)


 兄さんは私よりもずっと背が高い。その分お腹もすぐに空いてしまうのかもしれない。


「ううん。兄さんと一緒に食べようと思って買ったの。どこか座れる所を探して、今から食べようよ」


「そうか。それはありがたいな。お前を探している時にベンチを見つけたんだ。そこで食べよう。案内する」


 こっちだ。と言って歩き始めた兄さんの背中を追った。男である兄さんも、私を守る為に沢山食べているのだろうか。

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