第3話 兄さんの部屋で

 その日の夜遅く、なかなか寝付けずにいた私は兄さんの部屋の前にいた。軽く扉を叩いてから声を掛ける。


「兄さん、起きてる?」


 ああ、という兄さんの声が聞こえてくると、扉がひとりでに開いた。これは入ってもいい合図だ。私は遠慮する事なく兄さんの部屋に足を踏み入れた。完全に部屋の中に入ると、私の背後で扉が閉まった。


「どうかしたのか、スティル」


 兄さんは魔法薬を作っている最中のようで、かき混ぜている鍋から目を離す事なく言った。


「全然眠れないの。薬の効果が切れてないんだと思う」


「……そうか。とりあえず、適当に座っていてくれ」


 私は兄さんのベッドの縁に腰かけた。ここからだと作業をしている兄さんの背中がよく見える。私は小さい頃から何かをしている兄さんの背中を見るのが好きだった。他の誰かと結婚してしまっては、この背中も見られなくなってしまう……。


 暫くすると兄さんは鍋をかき混ぜる手を止めて、ふう、と息をついた。


「実は、そうなる可能性を考慮して睡眠薬を作っていたんだ。飲むか?」


 鍋を指差しながら兄さんが言った。


「兄さんてば、用意周到すぎ。でも、それ不味くない?」


「ううむ……。まだ開発途中だからな。味はあまりよくないかもしれない」


「だったら、ちょっとだけ舐めて味を確かめてから飲むかどうか決める」


「……分かった」


 私は立ち上がって兄さんの元まで行った。鍋の中には紫色の液体が入っている。兄さんはかき混ぜるのに使っていた棒を鍋から出し、そこから滴る液体を差し出された私の指に乗せた。私は零れてしまわない内にその雫を舐めた。


「……う」


「……不味かったか」


「うん……。苦い。これを飲むのは苦行」


「そうか。これも改良の余地ありだな。なら無理に飲めとは言わない。眠くなるまでワタシの部屋にいてもいい。眠くなったらワタシのベッドを使っても構わない。ワタシはソファで寝る」


「ありがとう、兄さん」


 私はもう一度兄さんのベッドに腰かけた。ひと舐めとは言え、舐めたものは睡眠薬。その効果のお陰か、それとも昼間に飲んだ魔法薬の効果が切れてきたのか、冴えていた頭がぼんやりとしてきた。


 兄さんは作ったばかりの睡眠薬を瓶に移し替え、魔法薬作りの道具を片付けながら話し掛けてきた。


「お前は、あの男……ウェルグ・イズヴェラードの事をどう思っている?」


 そう聞かれて、私は数日前に会った彼の姿を思い浮かべた。父さんが“好青年”と形容した様に、外見は良い方だと自分でも思う。それでも……。


「中身が駄目。私の事を美術品みたいに言ってくる人は嫌い」


「そうか……」


 呟くように言うと、兄さんは私の隣に座って頭を撫でた。少し眠くなってきた私は、そのまま兄さんの肩に頭を預けた。


「皆、私の外見しか見ようとしない。私がどんな人間かなんて、誰も知ろうとしない。誰も私に人間性を求めてない。求めているのは、見た目の綺麗さだけ」


「……ああ、そうだな。だが、誰だってまずは外見で判断する。男か、女か。若いか、老いているか。見た目が綺麗か、汚いか。お前の外見は、女で、若くて、綺麗だ。大抵の男はそれで満足する。それだけで満足できなければ自分のものにしようとする」


「……兄さんも?」


「ワタシは……どうだろうな。正直なところ、自分でもよく分からない。綺麗なものを見て“綺麗だ”とは思っても、それ以上は特に何も思わない。ただ“綺麗だ”と思うだけだ。何故それ以上の事を考えないのか、と不思議に思われる事が多々ある」


 それ以上の事。きっと、ウェルグも私に“それ以上の事”を求めてくる。その事を考えると一気に不安と恐怖が押し寄せてきて、私は堪らず兄さんに抱きついた。


「おいおい、どうした急に」


「怖いの、私。好きでもない相手とそんな事したくない」


「っ……すまない。変な事を言ってしまったな。だが、まぁ……誰だって会ったばかりの相手の事は何も知らないし、好きだとも思わないはずだ。奴だって、たとえ婚約者といえども結婚をしていないのであれば手は出さないだろう」


 兄さんは私を安心させるように背中を撫でてきた。兄さんの手の大きさと温かさが夜着越しに伝わってくる。


「お前は昔から人見知りをしすぎる。ヴァンセートの事だって初めは警戒していたが、彼女がどういう人間か分かってきてからは段々と慣れていって、今や本当の姉妹の様だ。だから……もし、お前が奴に慣れて、結婚してもいいと言うのであれば、ワタシはそれを止はしない」


「えっ……」


 何で……? 昼間はあんなに怒っていたのに……?


 兄さんの顔を見上げると、兄さんは困ったような、悲しいような色を帯びた瞳で私を見下ろしていた。


「あれから色々と考えてみたんだ。もしお前が奴といるのに慣れる事ができたら、と。ワタシは……お前とずっと一緒にはいられない。だからお前を任せても大丈夫な奴かどうか、見極めたいんだ」


「そんな……嫌。私はずっと兄さんと一緒にいたい」


 私は兄さんの胸に顔をうずめ、抱きしめる力を強くした。兄さんがどこにも行ってしまわないように。


「すまないな、スティル。だが、ワタシはいずれこの家を出ていこうと思っているんだ。ここにいては医者にはなれない」


「じゃあ私も連れていってよ」


「……それはできない」


「何で」


「ワタシが働いている間、お前を家に一人で残す事になる。それでは心配だ」


「ヴァンスも連れていく」


「お前はヴァンセートに報酬を払えるのか? お前とヴァンセートは姉妹の様だと言ったが、あくまでもヴァンセートは使用人だ。使用人には報酬を払わなければいけない。それに三人で暮らすとしたら、三人で暮らせる家と、三人分の食糧がいる。医者として働き始めてすぐにそれだけの報酬が貰えるとは思えない」


「……」


 兄さんは、きっと、ずっとその事を考えていたのだろう。兄さんと、私と、ヴァンスの三人で暮らす道を。でもそれは現実的に考えると、とても難しい事なのだと兄さんは言っている。


「お前の事が嫌いだからこんな事を言っているんじゃない。お前が大切だから、危険な目には合わせたくないんだ。それは分かるな?」


「……うん」


「他にも何か方法がないか考えてはみるが、まずはウェルグがどんな奴かを調べよう。大丈夫だ。時間はたっぷりある」


「……うん」


「ほら、もう眠くなってきているんじゃないのか? 今日はもう眠れ。このままこのベッドで横になるといい」


 それでも私が兄さんにしがみついたまま離れようとしなかったので、仕舞いには兄さんが私を持ち上げて枕元まで運んだ。ゆっくりと私をベッドに下ろして私の腕を解き、私の室内履きを脱がし、布団を私の身体に掛けた。


「兄さんも、一緒に……」


「お前は幾つになっても甘えん坊だな。だがワタシはソファで寝る。そのベッドは今夜限りお前のものだ」


「じゃあ、私が寝るまで、隣にいて」


「ああ、分かった」


 そう言って兄さんは枕元に腰かけ、身体をこちらに向けた。


「ありがとう、兄さん」


「ああ」


 仄かに兄さんの匂いがする寝具に包まれながら、私は目を閉じた。眠りに落ちていく意識の中で、兄さんの呟く様な声が聞こえてきた。


「おやすみ。ワタシの可愛いスティル」

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