第55話 それぞれの道(5)
あれからアンさんの婚約者である晴臣さんは、マスターとサユさんの3人で盛り上がっていた。
「へぇ、マスターの奥さんってそんな凄い女性なんだ」
「そうですね。彼女は太陽みたいな人です」
「うふふ、元始、女性は実に太陽であった…ね」
「へぇ、マスターやるじゃん」
耳に入って来る会話から推測すると、今はマスターの奥さん…つまり俺の姉さんの話で盛り上がっているらしい。
それに先ほどから聞こえるのは「奥さん」と言う単語ばかりで、一体何の話をしているのやら、俺にはよくわからない。
その上、サユさんまで参戦しているので、誰の奥さんの話なんだろう。
傍で聞き流している俺からすれば、まるで井戸端会議のようだ。
はぁ…。
結局、俺のモヤモヤとした思いは、行先を失ってしまった。
師走の夜だからだろう、晴臣さんとサユさん以外のお客さんは帰ってしまった寂しい店内。俺は静かに店じまいに向けて片付け始めた。
今日は使われていない窓際のテーブル席を片付ける。
室内の熱気で曇った窓の外を見れば、テールランプばかり流れていくのが見えた。
きっとみんな忙しいんだろう。
のんびりとお酒が飲めるのは、独り身だからだろうか。
そんな事を考えながらカウンター席の方へ振り向けば、サユさんと晴臣さんが楽しそうに笑っているのが見えた。
晴臣さんは相変わらず良いペースで飲んでいるようで、先ほどと変わらない学生のようなノリで楽しそうにウイスキーに口をつけていた。
う~ん。
晴臣さんは師走の忙しさの息抜き…なんだろうか。
そんな事を考えながらテーブル席の周りを片付け、カウンターの方へ戻って来ると、まだ「奥さん」の話が続いているようだった。
「じゃあ年明けから奥さんと一緒にアメリカで生活なのね。なら、まだチャンスはあるじゃない」
「あはは、希望はありますかね?でもあいつ、向こうでモテそうで怖いんですけど」
「あ~、だから焦っちゃったのね」
フフフと笑いながらサユさんがグラスを傾けて笑っている。
その言葉を聞きながら晴臣さんは俺の方に目を向けるも、その視線は俺の背中に並んでいるボトルをぼんやりと眺めているようだった。
「かも知れませんねぇ。…まぁ、俺も婚約を解消して直ぐに言い出したのが…」
「確かにタイミングは重要…って、ショウ君…?」
人間は驚きすぎると声が出なくなるらしい。
「⁉」
咄嗟に漏れた驚きの声は、喉の奥から外に出る事が出来ず、逆にひゅっと息を飲んだ。
「婚約解消…って何ですか?」
震えるような、恐々とした自分の声が聞こえる。
「…あぁ、まだ聞いてないんだ」
少し苦い顔をした晴臣さんが答える。
「聞いてないって何ですか?解消って何ですか?」
「何って…って、そのままの意味だけど?」
「そうじゃなくて、何で?ですか?」
「何で?って言われても、それが彼女と俺が出した答えだよ」
「は?答えって?何のですか?」
答えにならない答えに徐々に苛立つ俺。
そんな問答に晴臣さんは呆れた顔を見せた。
「何がって、しょうくんが杏子さんに聞けば良いじゃないか。でもさ、きっかけはしょうくんだと思うよ」
どうも俺が晴臣さんの話に入ると、話がややこしくなる。
さっきから聞く話は、展開が見えなくて良く分からない。
そんな話のきっかけが俺だと言い切る晴臣さん。
「は?」
「ちょっと、ちょっと、ショウ君落ち着いて」
キレた俺を宥めるようにしてマスターが間に入る。
マスターが俺に向かって宥めている様子を気にする事も無く、晴臣さんはグラスの中身をクィっと一気に押し込んだ。
「マスター良いよ。俺、しょうくんには感謝してるから」
「え?」
「は?」
思いもよらない晴臣さんの言葉に、俺とマスターは驚きの声を上げた。
「感謝…って何を」
最初から話の中身が全く見えない。
晴臣さんは一体、何が言いたいんだ。
「だってしょうくんのお陰で、俺も杏子さんも自分と向き合う事が出来たんだよ」
「自分と向き合う…ですか?」
晴臣さんの言葉に質問で返したのはマスターだった。
「だって自分を無視したままじゃ、他人と本気で向き合えないでしょ?」
「…そうかも知れないわねぇ」
今度はサユさんが言葉を返す。
「でしょ?」
そう言って満足そうな笑みを晴臣さんは浮かべた。
サユさんもゆっくりとグラスを回しながら、マスターの背中に並ぶボトルを眺めているようだった。
「だから、それが宿題だったんだけど、しょうくんはまだ取り組んで無いみたいだし。あのさ、しょうくんさ、本当は自分でも気が付いてるんじゃないの?」
「何の話…ですか…」
「普通さ、婚約者がいるのに、それより先に体が動くって、そう言う事じゃ無いの?」
「っ…」
その指摘は、前にアンさんにも言われた事だった。
そして俺もその事に気が付いてる。
けれどそれは持ち出してはダメなはずだ。
「そう言えば俺も、そうだったな」
言葉を返せない俺に晴臣さんは小さな笑みを吐くと、中身の少ないグラスを眺めながらぼんやりとした表情で話し出した。
それは晴臣さんがまだ新人の頃の話だった。
「でさ、俺顔が良いから学生の頃からモテたんだ。だから同期の奥の下心の無い気軽さが心地よかったんだよ」
「奥…?」
晴臣さんの口にした「奥」と言う人物は、同じ年の同期入社の人物らしい。
奥さんは、女性ながらも優秀な人物だったようで、社内でも花形であった父さんの部署に入る事になった。
それから3年後、晴臣さんも希望していた父さんの部署への移動が叶ったそうだ。
「俺はさ、啓司さんの下で一緒に働きたかったから、念願が叶って浮かれてた。社内でも啓司さんを慕う人は多いしな、いい気分だったよ。
詳しくは言えないけど、啓司さんの部署はさ、これからの会社の行先を担う面も多かったからさ、仕事が出来るメンバーが集められたって、そんな感じだったしな」
車内でも華やかで、目立つ部署。
そこにまだ若手だった奥さんが入った事は、割と影響が大きくて、それなりに、やっかみ事があったらしい。
「奥はさ、言いたい事は我慢するけど、言わないとダメな事は言うタイプだから、大変そうだった。同じ部署の女性陣はそんな事はしないけど、外に出た時の風当たりは強かったんだと思う」
そんな奥さんへ気遣いを見せたのが同じく同期入社の松下さん…だったらしい。
「松下…もさ、根は悪い奴じゃないしな。それに同期の中でも割と誰とでも仲良くなるような奴だったから、奥も話しやすかったんだと思う。
結局奥は、俺に面倒な話はしてくれなかった。
それは同じ部署だから言えなかったんじゃなくて、同じだったから心配させたくなかった…って感じだと思う…」
そう言って苦笑いを浮かべた晴臣さん。
「逆の立場だったら、俺もそうしてたしな」
やがて奥さんと松下さんは惹かれあい、付き合うようになる。
「二人が付き合っていた事は知ってたし、何なら俺の彼女と四人で一緒に出掛けた事もあった。仲良さそうだなとか、松下は見る目があるなって…そんな感じだった」
けれど、二人の結婚式に出た時、奥さんの花嫁姿を見て自分の思いに気が付いたらしい。
「なんで奥の隣に居るのが俺じゃないんだろうって…。ほんと、バカだよな。
松下の笑う顔にムカつきながら、奥の幸せそうな顔で泣きそうだった。
同僚だからとか、同期だからとか、彼氏がいるとか、そんな事で自分の気持ちを見なかったんだ。
結局さ、俺、二人を見てマジで泣いてたらしくてさ。
先輩や他の同期のやつらに友達思いの良い奴だなんて揶揄われたけれど、俺の涙は、そんな良いモノじゃなかったんだよ。
だけど、今更だろ?だから、この気持ちは一生誰にも言わずに、いつか忘れる日が来るもんだと思って蓋をしたんだ」
奥さんは、結婚後もそのまま同じ部署で働き続けた。
もちろん本人の希望もあっての事だった。
忙しくしつつも、仕事も私生活も充実してる様子を見せる奥さん。
その幸せそうな顔を壊したくないと、晴臣さんは自分の思いを割り切って、今まで通り仕事仲間として、同期の友人として接した。
だけど、そんな奥さんの頑張りが悪い方に向いてしまった。
結婚後も会社の中でも華やかな部署で活躍する奥さんだ。
内部でのやっかみが酷くなると共に、奥さんに対する松下さんへの態度もよそよそしくなり、徐々に関係が悪くなった。
結局、二人は離婚と言う選択を選ぶ。
「これは自惚れじゃなくて、離婚前も後も奥が辛い時期を支えたのは俺だと思う」
「…」
「別に離婚しても、奥のキャリアには全く関係無い話だ。
だけど、松下よりも早く奥に思いを伝えていたら…って。俺だったらこんな事には絶対にさせないのにって、どこかでずっと考えていた」
そんな晴臣さんの告白に俺とマスターは相づちも打てず、ただ静かに耳を傾ける事しか出来なかった。
「結婚式のさ、あの日の奥の幸せそうな顔が今でも忘れられないんだ…。俺だったら守ってやれたかもって」
後悔を綴る晴臣さんの言葉。
重い空気の中、サユさんは小さく息を吐くと、晴臣さんへ顔を向けた。
「それは自惚れ屋さんね」
その強烈な一言に、晴臣さんのと俺は肩を揺らした。
「サユさんにそう言われたら、何も言い返せないですね」
サユさんの言葉に答えたのはマスターだ。
「だって、女性側にも、選ぶ権利はあるのよ」
「あはは、おっしゃる通りです」
続けられたのは最期のトドメのような鋭い言葉だった。
だけど、晴臣さんはその言葉に笑って答え、降参の白旗を振った。
「そもそも、好いた相手に思いを告げる事自体が、自分勝手なものなのよ」
サユさんが俺の方へ顔を向ける。
「だけどね、思いやりのある情熱は、嬉しいんじゃないかしら」
「告白に思いやり…?ですか?」
「えぇ、学生や子供なら一方的な思いを告げるだけでも良いと思うけど、大人ならね。自分だけでなく、相手を思いやる気持ちも大切なんじゃないかしら。
それに、その言葉に嘘が無いなら、それは受け取ってもらえると思うわ」
サユさんの静かで優しさのある声。
その言葉が届いたのは、きっと俺だけでは無いだろう。
項垂れていた晴臣さんの顔が上に向いた時、その顔はとてもスッキリとしていたのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます