第20話 初老男性のお願い(1)
ある日曜日の夜、仕事を終えて店の外に出ると、店の外で待っていた初老の男性に声をかけられた。
「失礼ですが、池田
人違いですと答えようかと一瞬過るも、身なりの整った初老の男性の柔らかな印象に「そうですが」と自然に声が漏れてしまった。
「お仕事を終えたばかりで恐縮なのですが、お話したい事がございまして、お時間を頂ければ…と」
「…」
「それとも日を改めさせて頂きましょうか?」
その問答に俺の拒否権は無いらしい。
柔らかい印象のままで押し切る初老男性の強さに、負けも良いかと思えたのは、初老男性の吐く息がまだ白くて、冬の夜の寒さを気の毒に思えたからだ。
「どうぞ」
俺は白いため息を吐いて答えた。
「では、ゆっくりとお話が出来る場所へご案内させて頂きます」
俺の返事にニコリ微笑んだ初老男性は、店から少し離れたパーキングへ俺を案内した。
初老男性の「どうぞ」という言葉で、乗用車の後座席へ座る。
「少し車を走らせます。この時間でもお茶の飲める場所に行きましょう」
初老の男性はそう言ってパーキングから車を走らせた。
そこから10分ほど走っただろうか。先ほどとは違うコインパーキングに車を止めて細い車道を歩き出した。俺は案内されるままついて行く。
程なく、少しレトロな雰囲気のする喫茶店へ着いた。
俺はてっきり24時間営業のフランチャイズのお店に行くのかと思っていたから、少し戸惑ってしまった。
初老男性が喫茶店のドアを開けて店内に入ると、「いらっしゃいませ」と言う声と共に、初老男性と同じ年頃の男性の店員が出て来て、店の奥にあるテーブル席へ案内してくれた。
「
「…コーヒーをお願いします」
席について注文をすれば、程なくテーブルにコーヒーが運ばれた。
「頂きます」
「どうぞ」
初老男性に促されて、俺はコーヒーを静かに飲み始めた。
妙に落ち着かない気分を変えたくて、俺は店内を見回した。
やはりと言うか、俺達以外のお客さんは居ないようだ。
「こんな時間に開いてるなんて珍しいですね」
俺の素朴な疑問に初老の男性は少し笑いながら答えてくれた。
「昔のよしみで、少しだけ長く店を開けてもらえるようにお願いをしました」
「そうなんですね」
少しだけ…と言ったけれど、多分そうでは無い事は見て分かる。
俺達の為にわざわざお店を開けてくれたのだろう。
初老男性の物腰は柔らかい。だけどこんな時間にお店を開けさせる事が出来るような人なら、俺の言い分が通ったり、拒否権を行使したりすることは出来ないのだろうな。はぁ。一体どんな話をされるのだろう。
俺は少しだけ身構えて話を切り出した。
「で、話ってなんですか?」
少し声が冷たくなったのは仕方が無い。
けれど初老男性は、そんな俺の態度に印象を良くしたようで、微笑ましいものを見るような目で俺の顔を見た。
まるで目を細めながら、孫とか猫を見守るおじいちゃんだ。
「あなたに会って頂きたい人が居て、それのお願いでございます」
その言葉に、俺は肩を揺らした。そしてまさかの話が過る。
軽く握っていた拳に勝手に力が入る。
「…嫌だと言えば?」
「どうしても…と言うのでしたら、致し方ありませんが…」
初老の男性は少しの沈黙の後、断りにくい言葉で返事をした。
どうしても無理なら断っても良いのか?
そんな事を考えていたら、初老男性が話しかけてきた。
「先の短い人間の願いを聞いてはもらえませんか?」
「え?」
思いもよらない言葉に驚き、目を丸くする俺。
「少々ずるい物言いになってしまい、申し訳ございません」
そう言って頭を下げられては、断れない。
やはり最初から俺に拒否権は無かったらしい。
こうなったら、もう初老男性のペースだ。
俺は諦めてため息を吐いた。
「で、どうすれば?」
「ありがとうございます。だた、その前に少し私の昔話を聞いてくれませか?」
どうやら誰かと会う前に準備が要るらしい。
そして俺はその『誰か』が何となくわかってしまった。
仕方が無い。俺は黙って頷き、初老男性の話を聞く事にした。
******
初老の男性は自分の名前を「桜田」だと名乗った。
そう。彼は母の葬儀の後に姉さんの世話をした、あの桜田さんその人らしい。
「その頃、私がに仕えていたのは、今の旦那様のお父親様でごさいます」
桜田さんはそう言って昔話を切り出した。
「当時の旦那様…今の大旦那様ですが、その奥様は心の病を患っておりまして、そのお世話をする為に将司様のお母様が雇われました」
この話は、先日姉さんが明人さんに話した会話と一致する。俺は頷いて会話を促した。
「そんな中、私が現在お仕えしている旦那様と、将司様のお母様が恋仲になりました。…もちろんそのような事が起き無いように配慮はしていましたが、それでもお互いに惹かれあってしまわれたようです」
桜田さんの話は、姉さんから聞いた話の埋まらないピースのようで、俺は更に話を続けるように、再び頷いて桜田さんを促した。
「旦那様は将司様のお母様の智子様と添い遂げると、大旦那様に訴えましたが、聞き入れてもらえませんでした。そして奥様の病が悪化するのと同時に、大旦那様は智子様に暇を出されました」
これも姉さんの話と一致する。そうか、あの介助の必要な女性は病が悪化して、母さんでは面倒を見るのが難しくなったんだな。
「智子様は大旦那様の意志を受けました。そして旦那様に別れを告げて家を出られたのです。ですが旦那様は…未練のようなもの…と言うより、優しい方でしたから、添い遂げる事が難しくても、最後まで面倒を見るつもりでいたようです」
つまり、母さんと結婚は出来ないけれど、内縁の妻…という形にするつもりだったのだろうか。
「旦那様も知らなかったのですが、智子様が家を出られる前に、既に将司様を身ごもらていたようです」
「……」
「その後、将司様がお生まれになられました。知らせを聞いた時の旦那様は…私の目から見てもとても嬉しそうでした」
俺が生まれたのは二人にとっては喜ばしい事だったけれど、家にとっては良い話では無かったらしい。
「大旦那様に見つかれば、智子様や将司様がどうなるか分からない…。旦那様はそのようにおっしゃられ、隠れて智子様の元へこっそりとお出かけになり、智子様にお願いするような形で将司様とお会いになられました」
そう言えば、姉さんもそんな事を言っていた。
『マサシが覚えているかどうかは分からないけど、マサシが小さい時は、その人がうちを尋ねて、時々だけど、将司を遊びに連れて行った事もあるわ』
俺の記憶にない、子供の頃の話だ。
「次第に智子様も、旦那様と将司様が一緒に過ごされるのをお許しになったようで、共に過ごす親子の時間を楽しんでおられました。その時のお幸せそうな顔は今でも私の脳裏に焼き付いております…」
桜田さんの話は、俺も姉さんも知らない俺と母さん、そして父親との過去の話だった。でもこれは、本当にそうなのだろうか。桜田さんの希望の話かも知れない…。
「……幸せ…」
「はい、少なくとも、私の目にはそう映っておりました」
例え桜田さんの話が嘘だったとしても、母さんが傷つけられて俺が産んだのでは無い事がわかり、俺は少しだけ気分が軽くなった。
そうか。望まれた…のかな?
俺は少しだけ抱いていた、母さんに対する俺の罪悪感のようなものが、薄れていくような気がしていた。
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