第21話 初老男性のお願い(2)

桜田さんは俺の知らない過去の話を続けてくれた。


それは俺が4歳頃の話らしい。

その頃に仕えていた旦那様…つまり今の大旦那とやらが、既に遠方で療養していた奥さんと一緒にその地で暮らす事を決めたそうだ。

それで二人の息子、つまり俺の父と、父の兄とで事業を引き継ぐ事になった。


父は事業の引継ぎの方が忙しくなり、そのせいで母さんや俺と会うのが難しくなった。


「旦那様の引継ぎが終わり、全てが落ち着かれるまで、3年ほどかかってしまいました」

「……」

「智子様ともう少し早くお会い出来れば良かったのですが、引き継いだ事業に目途が付いた頃に、奥様が亡くなられました。そして後を追うように大旦那様も…」


今度は家の方に不幸が続いたので私生活の方でも忙しくなってしまった。

結局、母さんが住み込みをしていたという家も、父さんが引き継いだそうで、今でもその家に住んでいるとの事。独り暮らし…だそうだ。


やがて大旦那の葬儀も終わり、全てを片付けて、父は母を迎えに行こうと考えていたそうだが…。


「それで事故の知らせを聞いたと」

「えぇ、智子様の家を訪ねた際に、ご近所の方が教えて下さったのです。お留守だったそうで、旦那様が尋ねたとか。」

「……」

「結局、智子様に会う事も無く、訃報の知らせを聞きました。そして旦那様は葬儀の手伝いを私に申されました」


ここまでを話すと桜田さんはコーヒーを一口飲んだ。

俺もそのタイミングでコーヒーを口にした。

既に冷めきったコーヒーは酸味が出ていた。苦くて酸っぱくて、美味しいものでは無くなっていた。


「旦那様は、将司様と姉の頼子様をお引き取りになりたいと申されました」

「姉さんもですか?」

「ですが頼子様のご親族が『見ず知らずの男性に預ける事は出来ない』と申され、断られました。ですが将司様は構わないと…」

「……」

「頼子様の事は、当面の面倒を見る事と、少しの援助なら良いとお許しを頂けました。そう言った事情で、暫くの間、私が頼子様のお力になった次第です」


そんな背景があったなんて…。

その経緯に姉さんの気持ちは入って無かった。だから俺は姉さんの当時の気持ちを桜田さんに告げた。


「姉さ…姉は、引き取られた後に、俺へ姉が関わらないようにするために、その代わりで援助をしたのだろうと思っていたようです…」

「…左様でございましたか」


姉さんの気持ちを知った桜田さんの肩が揺れた。


「私では頼子様のお気持ちをくみ取る事が出来なかったのですね」

「一人になって、姉も混乱していたのだと思います」

「頼子様にそのようなお気持ちがあったとは…正直、今の今まで全く気が付きませんでした…。本当に言葉が足らず…申し訳ない事をしましたね…」


桜田さんは目を伏せて、後悔の念を述べる。


「例え姉さんが、そういった事情みたいな、親戚の話を聞いていたとしても、それで納得したかどうかは分かりませんし…。そもそも姉さん側の親戚の意向があったので、俺だけを引き取った…という話ですよね?」

「左様でございます」


それは恐らくだけど、姉さんも知らなかったと思う。

当時の姉さんは未成年だった訳だし、ましてや結婚も出来る微妙な年だ。

俺の父と名乗る男の元へ姉さん渡す事に、親戚が不信感を募らせてもおかしくは無い…。


「…姉さんの事は分かりました。ではなぜ俺を連れ戻す話になっていたのですか?」

「それは完全にこちら側の都合でございます…」

「それはどういう事ですか?」

「まずは、そのお話をする前に、将司様がもっと小さい頃のお話をする必要がございます…」


桜田さんは少し言いにくそうに話を切り出した。

それは先ほども聞いた家族の不幸が続いた話だ。


「旦那様のご実家…智子様が住み込みで働いていらしたお屋敷ですが、大旦那様が田舎へ向かわれたと同時に、旦那の兄である英司様が後を継がれる話になりました」


どうやら、最初は父の兄が家を継ぐ話になっていたようだ。


「将司様が覚えておられるかどうかは分かりませんが、兄の英司様がご不在の時は、旦那様や、英司様の奥様とお嬢様とお屋敷でお過ごしになる事もございましたよ」

「え、俺もその家に行ったことがあるんですか?」


どうやら幼児の頃の俺は、その屋敷に出入りをしていたらしい…。

そして一人っ子だったお嬢様と一緒に庭で遊んでいたとか。

ここまでを聞いて、俺は覚えていない自分の記憶の整理をする事にした。


「それは俺が生まれて、父という人が事業を継ぐ前の話…ですか?」

「はい、その頃のお話です」

「母さんの許しが出て、父が俺を遊びに連れ出した…その頃の?」

「左様でございます」

「そうですか。実は全く覚えて無くて…」

「左様でございましたか…」

「続けて…もらえますか?」

「はい…」


桜田さんは再び話を聞かせてくれた。


「それから先ほどの通り、大旦那様が亡くなられ、旦那様と兄の英司様は事業の引継ぎに追われました。ここが智子様と将司様と疎遠になった時期ですね。

しかしその事で兄の英司様が、奥様と旦那様との仲を疑われたのです…」

「と言うと?」

「旦那様のお気持ちは智子様にありましたが、それをご家族に言い出せずにおりました。だから他に恋人も作らず、結婚もしないままで、家を出ない旦那様の事を、兄の英司様はお疑いになったのです」

「だから…ですか?俺を見せて、その誤解を解こうと?」

「はい。旦那様は、いずれ将司様がもっと大きくなった頃に、英司様と会わせるつもりでは居たようですが…」


なるほど。

母さんが家を出た後も父と関係が続いてたことを、知らなかったんだな。

そう言えば、父の兄のという人が留守の時に、俺がその家に遊びに行ったと、桜田さんは言ってたっけ。


「ですが智子様が急に亡くなられたので、まだ7つだった将司様を引き取る形になってしまい…準備も何も出来ないままに、将司様が英司様とお会いになる事になりました」


そこまで告げると桜田さんはテーブルの上で組んでいた手をほどき、姿勢を正して俺に頭を下げた。


「さ、桜田さん…?」


困惑しながらも、俺は手を伸ばして、桜田さんの肩を押して頭を上げる様にお願いした。けれど桜田さんは頭を下げたままで、謝罪の意を俺に伝えてきた。


「この後の事は、私共の力が及ばず、将司様に辛い思いをさせてしまいました」

「っ…」


桜田さんの言葉に俺は動揺した。

きっと俺が覚えていない時期の事を言っているのだろう。

姉さんも俺の様子が変わったと後悔をしていた。

あの空白のような時間…一体何があったのだろうか。


「桜田さん、止めてください。頭を上げて下さい」


言葉を何度もかけても、桜田さんはずっと頭を下げたままだった。

桜田さんの言う通り、確かに辛い記憶はある。

多分だけど、凄く酷い事を言われたと思う…。

でも幼い頃の俺は、その全てを受け止める事が出来なかったんだ。

だから桜田さんにその事実を告げた。


「桜田さん、俺、全てを覚えている訳ではないんです」


俺の言葉で頭を下げたままの桜田さんが小さく驚きの声をあげた。


「実は、連れて行かれた先で、俺の父という人に酷い事を言われた事は覚えているのですが、それがどんな言葉だったとか、どういうものだったかは…全てが曖昧で覚えていないんです」

「な、なんと…」

「ただ、父は俺に嫌な事をした。…そう言った印象の記憶しかしかなくて。だから…桜田さんに謝られても…よく分からな…」

「だ、旦那様はそのような事を申しておりません!」


言いかけた俺の言葉を遮るように、桜田さんは大きな声を出して否定の言葉を口にした。


「え?」

「まさか…、まさか、将司様は、旦那様が将司様に危害をお与えになったと思われているのですか?」

「えっと?違うのですか…」

「誤解です!なにか行き違いがございます!」


必死に否定をする桜田さん。

けれど俺はそんな桜田さん言葉に困惑するばかりで、何も言い返す言葉が見つからなかった。

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