第22話 初老男性のお願い(3)

誤解です、と言った桜田さんの剣幕に押され、俺は黙り込んだ。


「将司様には酷なお話かも知れませんが…旦那様はそのような事をなさるはずがありません」

「…ですが…」

「確かに英司様は時折、幼い将司様に強く申される事が多々ございましたが、旦那様はそのような事をなさるはずがありません」

「…では俺の思い違い…だと言うのですか?」


その時の俺はきっと冷たい声が出ていたと思う。

俺はただ、自分の中の小さな頃の自分を守りたかっただけなのに…。


「っ…、ですが…将司様がお辛そうな時は、英司様の奥様もお嬢様も、もちろん旦那様も優しいお言葉をかけて下さっていたかと…」

「だけど、それを俺は覚えていません」

「っ…」


俺がキッパリと告げると、桜田さんは項垂れて黙り込んでしまった。

二人の間に重い沈黙が広がる。


「冷めてしまったようですから」


その言葉で二人の間の重い空気が少し変わった。

二人が座るテーブルに初老の店員さんが、甘いチョコレート香りの飲み物を差し出して来たのだ。


「ココア…」


初老の店員さんは、穏やかな顔でココアのカップを俺の前に置く。


「桜田は飲まないよね?」


初老の店員さんは少しだけ意地悪そうな笑みを浮かべて、桜田さんの前には湯気の立つ香ばしいコーヒーを置いた。


「僕が知ってる、桜田が言う坊ちゃんは、ミルクが多めの温かいココアを飲むのが好きだったそうで…」


店員さんは桜田さんに目くばせをしたかと思うと、俺の顔を見て微笑んだ。

俺はその笑みに促されるように、出されたココアにゆっくりと口を付けた。


「甘い…」

「大人になると、この甘さが苦手になるかも知れませんけどね」


店員さんは俺の言葉に苦笑いを浮かべていた。けれど俺が言いたいのはそうじゃなかったから素直に自分の気持ちを伝えた。


「いえ…。甘くて、旨いなぁって…」


再びココアを口に含んだ時、店員さんは嬉しそうなっこえで俺にこう告げた。


「それは、ようございました」


その言葉と、ココアの香りに、俺は遠い記憶の欠片が蘇った。


「あれ?」

「…将司様?」

「ココアを入れてくれた人って?」


懐かしい香りに記憶が徐々に鮮明になって行く。


「は…怖くない方が…父さん?…とキョウ…ちゃん?」


目の前の桜田さんの顔が徐々に滲んで行く。

何故だか分からないが、俺の目から涙がポタポタと零れだした。


「あれ?なんで父さんが謝ってるんだろ…」

「将司様…?」

「…キョウちゃん…も泣いて…」

「将司様?」

「あぁ、もう大丈夫だって言ったら、桜田さん?あれ?桜田さんが、いつもと同じで…?」

「……」

「よ…よう…ざいましたって…。ようございま…した…って…あれ?」


涙と共に、自分の中の記憶が溢れてくる。

訳のわからない記憶に翻弄されて、頭が混乱する。俺は頭を抱えるようにしてテーブルに伏せた。


っ…違う…。

そう…だ。

違う…。

俺の父親は…。


そっちの人じゃない。


「…桜田さん…」

「はい、何でございましょう」


そう。間違えていた。

俺は記憶違いを起こしている…。

それは幼い頃の俺が自分を護る為に、全てに蓋をするときに、整理が出来ずごちゃ混ぜにして閉じたからかも知れない。

そうだ、姉さんもそう言っていたじゃないか。


が現れて、マサシを返すと言ったと。


「…俺の父親と、そっくりの人が…?」


俺の言葉に桜田さんは肩を揺らし、ハッと息を飲んだ。


「だとしたら、俺、間違えてます…」


俺を姉さんの元に突き返したのは…。


「…旦那様と兄の英司様は、年子でよく似ておられます…」


そう。記憶にある冷たい視線の男は父じゃない。


「俺が姉さんの元へ戻された時、俺の父という人は何処に?…」

「その頃は、ちょうど旦那様と私がアメリカへ…」

「そうですか」

「と言っても、二週間程の間だったのですが、旦那様が留守の時に頼子様とその親族の方の申し出があったと言われまして…」


それは嘘だ。

きっと邪魔になった俺を追い払うための口実だ。


「旦那様の籍に、将司様を入れる事が許されていない状態だったのです。それに英司様の奥様が、ご姉弟は一緒に暮らす方が望ましいと申されまして…」

「そうですか…」


俺はゆっくりと頭を起こし、まだ温かさの残るココアを一口ん飲んだ。

少し熱いココアがゆっくりと胸に広がると、俺の混乱もほどけていくようだった。俺はカップを抱えたまま、手のひらでココアの温かさを感じる事にした。


「俺が姉さんの元へ帰る事になったのは、英司って人の判断だったという事ですか?」

「詳細はわかりかねます。ただ旦那様が日本に戻られた時には、既に将司様は…。その後、出張から戻った旦那様は、色々と諦めてアメリカの支店行きを決められました」

「…そうでしたか」


思い出すように語る桜田さんの肩が、みるみると下がって行く。

きっと桜田さんも事情がわからずに、今の今まで親戚の都合で俺が家に帰ったと思っていたんだろう。

…だから、という訳ではないけど、俺は思い出した、家を出る最後の日の記憶を桜田さんに告げた。


「家を出されて、帰る時だと思うんですが…」

「はい…」

「多分その英司って人の奥さんと…お嬢さんという方に世話をしてもらったかも知れません。セーラー服を着ている女の子の記憶があるので、そうかなって」

「そうですか。その頃のキョウコ様なら、そうですね。セーラー服の制服でしたね。キョウコ様は将司様の事をずっと心配しておられましたので…」


俺は桜田さんの言葉で、話の中の一人娘のキョウコさんが、俺の知るキョウコさんと重なってしまった。


そうか…。

そうだったのか。

「大川杏子」の大川の苗字は偶然じゃなかったんだ。


「では、あの茶色の犬は…もう…」

「茶色の犬ですか?恐らく将司様が幼少の頃に出会われたのは、お嬢様が元々飼われていた子だと思います。その子は随分と前に亡くなりましたがね」


記憶にあるのは、フワフワの茶色の毛をした大きな犬。

そうだ。あの家は大きな犬を飼っていた。


「ですが、将司様が戻りになられた時に産まれた子は、最近まで生きていましたよ。最初の子が産んだ子ですね」

「そうだ。子犬が産まれたから名前をつけて良いと」

「一緒に考えておられましたね」

「ジロだ」

「お嬢様が、なぜ親が小次郎なのに、その子供が次郎じろうなのか?そんな名前の付け方は変だと言っておられましたね」

「そうそう…子供が親の名前みたいになっちゃうって言ってた」


桜田さんは懐かしい景色を思い出しているようだった。

俺は残りのココアを一気に飲み干してジロの事を思い出した。


次郎じろうじゃなくて、だったんです」

「…それはきっと将司様しか、分からなかったかも知れませんね」

「だって、小次郎もそうだけど、ジロも女の子だったし…」

「そう言えば不思議な名前でしたね」


犬の名づけの不思議さに桜田さんは少し笑っていた。

そして俺は、アンさんの好きな『じろう』の事を思い出した。

こっちも偶然…なのだろうか。





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