第23話 初老男性のお願い(4)

桜田さんと会った数日後、俺は桜田さんの願いを叶える為に、教えてもらった場所に向かった。

向かった場所には大きな白い建物があり、1階のロビーには連絡を受けた桜田さんが待っていた。


「将司様…ありがとうございます」

「…いえ」


俺は桜田さんの後に続いて、その人が待つ病室へ向かった。


玄関ロビーの奥には芝生の敷かれた広場のようなスペースがあり、低木が整えられ、ちょっした憩いの場となっている。

今日は平日のせいか、少しだけガヤガヤとした賑わいもあり、低木の並ぶ小道には散歩をしている人がいた。


桜田さんについて行くような形で、ロビーを抜け、広いエレベーターに乗り、音のならない廊下を静かに歩く。

時折ワゴンをおした看護師さんとすれ違う。

少し籠った臭いのする廊下は、白くて清潔感がある。


やがて大きな扉の前についた。

ネームプレートには「大川 啓司」と書いてある。


「旦那様、桜田です」


桜田さんはドアを引いて俺を中に案内した。

部屋に入り、案内されるまま病室の奥にあるベットの方へ目を向けた。

そこに居たのは上半身を起こしたパジャマ姿の男性。

その人は俺の顔を静かに見つめていた。


「ここまで似るんだね」


その人は懐かしむような顔をして、柔らかな笑みを零した。


「旦那様のお若い頃とよく似ておられます」

「…あぁ…でも…智子の面影もあるんだな…」


その人は少し目を細め、俺の柔らかい髪の毛を見ているようだった。


「将司様、こちらへ」


桜田さんに案内されて、ベッド脇の椅子に座った。

その人の近くに座る事になったが、少し物悲し気な視線が気になって、目を合わせる事が出来ず、少し視線を逸らすように俯いて座った。


ココアを入れてくれた俺の記憶のその人は、もっと若くて、もっと大きくて、もっと朗らかそう笑う人だった。


変わらないのは、最初に微笑んだ目元の印象で、白髪が増えて痩せてしまったその人は、俺の知っている人とは違って見えた。

そして似ていると言った言葉で思い出す。

そうか。俺の目元は笑うと、こんな感じに見えるんだ。

もっと鋭い目つきの印象だと思っていたのに…。


「すまないね」


声をかけられて、視線をあげた。

そしてその言葉を反芻した。


すまない…とは?

それは、どういった意味だ?

俺がここへ来た事か?

俺達姉弟を自分の都合で引き離した事か?

それとも、母の最期に会えなかった事…だろうか?


複雑に絡む思いに、俺は唇を真一文字に強く結んだ。

そうなのだ。

だってこの人は、きっと何も悪くない。

ただ好きになった人と一緒になる事が出来なかっただけ。

しかも、独りでいる事を望んだ訳でも無いのだ。


多くの不運と偶然が重なって、きっとそうするしか出来なかったのだ。


でもな…と思う。

出来ればもっと抗って欲しかったな…って。

母さんと俺を愛していたのなら、もっと抗っても良かったんじゃないか…って。

だけどそれも、この人の優しさだったのかも知れない。

優しい人で、きっと色々な事を我慢をしてしまう人だったとしたら。

だからこうして一人で逝こうとしていたから、桜田さんが俺に会って欲しいと頼んだのかも知れない。


うん。これも、かも知れない、可能性の話だ。

本当の事はきっと誰にも分からない。


俺は納得できない何かを整理するように、何度も頷いた。

そして、全てを諦めたかのように、余計な事は考えないように切り替えた。

そう。すべては、本当に仕方のない事だったのだと。


俺は黙って持って来た紙袋の中からタッパーを出した。

蓋を開けて中身を見せると、その人がハッと息をのんだ。


「…食欲はある?」

「…ないかな」

「食う?」

「うん、頂こうか」


前向きな返事に少し笑みが零れた。

多分だけど、本当に食欲は無いのだろう。

けれど俺の差し出したタッパーの中身は食べたいらしい。


桜田さんがトレイにお皿やらカトラリーを乗せて持って来てくれた。

俺はそれをベッドの上にあるオーバーテーブルに置いて、タッパーの中のポテトサラダをお皿に取り分けた。


「どうぞ」

「ありがとう」


その人は暫く懐かしそうな顔をしてポテトサラダを眺めていた。

やがて気がすんだのか、小さな口に放り込んだ。


「旨い」

「…どうも」

「…うまい…な」


その人は目頭を押さえて、小さな声で旨いと言った。


「あんまり母さんの事も覚えていないんだけど、パンに乗っけて食うのが好きだったなぁって、それは覚えてる」

「あぁ…初めて見た時は驚いた。大きな口だった」

「うん。俺もその食い方が好きで」

「…そうか」

「何故だか、凄く旨くて、満たされる気持ちになる」


俺の言葉でその人の目からぽつりと、一つの雫が落ちた。

あぁ、こんな事でこの人は泣くんだ。


「あんたの事は…正直よく分からない…」


まだ思い出した記憶は、そう多くはない。

だから貴方の事は何も分からない。

もしかしたら思い出すかもしないし、すっかり忘れてしまったかも知れない。

だけど…だから…。


「だから、早々に母さんに会いに行くのも許さない」


俺がキッパリと言い切った時、俺の背中で桜田さんの息を呑む音が聞こえ、目の前の人は驚いて固まってしまった。


「…もう帰りますね」


その人にそう伝えて、席から立ちあがると、その人に背中を向けた。

桜田さんは少しだけ涙を浮かべて俺の顔を見ていた。


「さようなら、桜田さん」

「…はい。将司様もお気をつけて」


桜田さんに声をかけて病室を出ようとした時、あの人の小さな声が耳に届いた。


「将司…元気でな」


今にも消えそうな小さな声に、俺は最後の最後に絆されたらしい。

あぁ、そうか。

母さんもこういう所があったのかも知れない…。


俺は再びその人へ向き直り、言いたい事を言ってやった。


「あんたこそ。あんたこそ、元気になったら、今度は俺に会いに来いよ」


そう言った俺の顔は少し偉そうで、生意気そうな顔をしていたかも知れない。

くるりと向きをドアの方へ向いてひらひらと振って、そこからは一度も振り返らずに病室を後にした。


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