第19話 アンさんの婚約者

松山はお店にやって来る事が多くなった。

今夜も俺の目の前のカウンター席に陣取って、楽しそうに一人でお酒を吞んでいた。

そろそろ松山の知らない常連さんは居ないだろうな…なんて考えていたら、店のドアが開いて、ガタイの良い男性客が入って来た。


「こんばんは…」

「っ、いらっしゃいませ…」

「いらっしゃいませ」


入って来た男性客の見覚えのある顔に、俺もマスターも一瞬言葉が出なかった。

けれど悟られないように切り替えて挨拶をしたが、その男性客はその事に気が付いたのかも知れない。

彼は少しだけ苦笑いを浮かべて、自分の後ろを振り返り、誰かを呼ぶように手を招いた。そして男性客に促されるようにお店に入って来たのはアンさんだった。


「こんばんは…」


少し気まずそうにアンさんが店に入って来る。


「「いらっしゃいませ…」」


ガタイの良い男性客とアンさんは、いつもアンさんが座っているカウンター席に並んで席に付いた。


「今日は、いかがなさいますか?」


俺は少し動揺してしまったけれど、マスターは普段通りの様子を見せた。

まるで何事も無かったかのように、普段と変わらない笑みで対応をしている。


そんなマスターと違って、俺が動揺をこらえ切れないのは、ガタイの良い男性客が、アンさんさんと共にした一夜の夜に、店の前で長時間粘っていた、あの男だったからだ。

この様子だと、以前会った時よりも、アンさんとの距離が近い感じがする…。


注文を受けてマスターがお酒を用意していると、少し手持ち無沙汰になったのか、ガタイの良い男性客が俺の方を向いて声をかけて来た。


「えっと、君がしょうくん?だったっけ」

「え?あ、はい、そうです」


探る様な男性客の目線。その違和感に作った笑みで答える。

暫しの沈黙。その沈黙を破ったのはマスターだった。


「お待たせしました、ハイボールです」

「あぁ、ありがとう」

「はい、ありがとうございます」


マスターは空気を読むのが上手い。俺は少しだけ気が抜けた。

受け取ったハイボールを男性客とアンさんが口にする。


「うん、うまいね」

「ありがとうございます」


アンさんは特に何も言わなかった。

男性客の言葉にマスターは笑みで返す。

なんだろ。大人の男性の余裕のある感じと言うのかな。マスターも男性客も少しだけそんな醸し出す空気感が似ているかも知れない。

二人のやり取りで緊張感の抜けた俺に、男性客は体の向きを変えて話しかけて来た。


「随分前に、キョウコさんがお世話になったらしいね」


再び探る様な視線にさらされる俺。

きっと男性客が言いたいのは、アンさんと一緒に店で眠りこけた日の事だろう。


「お客様ですから」

「お客様ね…」


指すような眼差しに若干の気まずさと腹立たしさを抱え、何事無い振りをして俺は仕事を続ける事にした。アンさんは何も言わず、一口つけただけのグラスをカウンターに置いたまま、少し俯いているようだった。


アンさんが俺に対して気まずいのはわかる。だけど別にあの日の事はそんな不謹慎なものでは無かったはずなのに…。

そう思いながら俺がアンさんを見たのに気が付いたのか、男性客は大きく息を吐いて、「そうか」と言った。


「ごめん、ごめん。僕はキョウコさんが君の事を好いているのかと、勘違いしたようだ」


突拍子もない言葉に俺は目を丸くする。


「いや、そんなに驚かなくても。誤解だったようだ」

「あ~はい。そうですね。誤解でしょうね」

「…うん、誤解ねぇ…」


それでも少し含みを持たせた歯切れの悪い言葉。

まるでまだ何かを疑うような雰囲気に、俺は少し呆れてしまい、痴話喧嘩なら他所でやって欲しいと思い始めていた。


「ええと、お付き合いをされている…って事ですか?」

「婚約者だね」

「婚約者…あぁ、なら、誤解はちゃんと解いた方が良いですね」


そう言って俺は松山の方へ顔を向けた。

そして急に話に巻き込まれた松山は、驚いて、目を丸くさせていた。

そんな俺と松山の様子に、男性客は合点がいったような顔をした。


「と言っても、まだ同級生のままなんですけどね」

「…そうか。君も急にごめんね」


男性客は松山に謝罪の意を告げる。

松山は訳が分からないんだろう。男性の言葉に「はぁ」とか「いえ」だとかいって曖昧な返事を繰り返していた。


「…恥ずかしい話になるんだけど、彼女は子供の頃からずっと好きな人が居たらしくてね、結婚を前にそう言う話を聞いたものだから」


なるほど。男性客の言う、アンさんの好きな人とは、恐らく『じろう』の事だろう。

俺は合点が行ったとばかりに大きく頷いた。


「僕がここに来たのは2年と少し前ですからね」

「あぁ、なるほど。やっぱり誤解だね」


俺から『じろう』の事を教える必要は無いだろう。

単にアンさんの好きな人は、俺では無いと伝わればいいだけの話だ。


和解…って言う程のものじゃないけれど、誤解が解けてほっとしてしていたのも束の間。

アンさんが急に席から立ちあがった。

そして目の前のハイボールをごくごくと一気に飲みほして、店から出て行こうとして、荷物を抱えてドアの方へ向かったのだ。


アンさんの突拍子もない行動に、呆気に取られ動けない男性客。

俺は何も考えず、咄嗟にカウンターから飛び出して、アンさんの腕をつかみ、出て行こうとするアンさんを止めた。


「ちょ、危ないですって!一気に飲んでこのまま飛び出したら!」


アンさんを止める俺の剣幕に気が付いた男性客が、慌ててカウンター席からやってきた。するとアンさんは小さな声で「違うのに」と言って、悲しそうな顔で俺を見たかと思うと、再び俯いてしまった。


「え?…」


アンさんの言葉に驚き、固まる俺。

少し遅れてやって来た男性客は、俺が手を離すと、そのままアンさんの肩を抱いて彼女の荷物を手に取った。


「すまないね君、ありがとう」

「いえ…お客様ですから…」


何故だろう。

さっきと同じセリフのはずなのに、何故だかさっきとは違う意味を持ったような気がしてしまった。


「今日はもう帰りますね」


アンさんを宥め、マスターに声をかける男性客。

アンさんは彼の言う通りにするようで、黙ったままで頷いた。

そしてお会計を済ませた二人は店を後にした。


アンさんはずっと俯いたままで、長い髪の毛のせいで、どんな顔をして店を後にしたのか、俺には分からなかった。

ただ男性客がずっとアンさんの肩を抱いているのが印象的だった。


店の外まで二人を見送った俺は、小さく息を吐いて店の中へ戻った。

気分を切り替え、まるで何事も無かったかのように仕事に戻る。


カウンターを見れば、空になったグラスと、まだ殆ど残されているハイボールのグラスが並んでいた。


「何だか驚いちゃったね」


苦笑いを浮かべて、マスターが話しかける。


「痴話喧嘩…ですかね」


そんなマスターに俺も苦笑いで答える。


そんな俺達のやり取りに、常連さんも納得したらしく再び店内の空気はいつも通りへと変わって行った。

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