第32話 誤りを解く(2)

アンさんからすれば、本当に偶然が重なった出来事なのか。


アンさんが大人になって、馴染の店にやって来た新しい店員が、たまたま俺だった。

そして愛犬が死んで弱っていた時に、酔いつぶれたアンさんを介抱したのが、お客さんでも店長でもなく、たまたま俺だった。

でもそれよりも、もっと前。

アンさんにとっての偶然は、もっと前にあったのだ。


アンさんの遊び相手にと、連れてこられた子供が俺だった。

大好きな愛犬と似た手触りの、やわらかな髪の毛を持つ子が、たまたま遊びに来てた俺だった。

アンさんにとって初めてのプロポーズの相手が、そのたまたま来ていた遊び相手で、自分の従弟で、その子が幼い日の俺だった。


そしてそんな偶然はまだ続く。

アンさんが他人の都合で振り回されそうになった時に、助けたのが高校生の俺。

その頃の俺は、大人の都合で振り回された、可哀そうな小さな俺とは違う、成長して体の大きくなった俺だった。


そんな俺への縁と言うか、偶然にアンさんは縋ったのか?

見合いという親の都合に抗いたいアンさんは、たまたま偶然に選んだのも俺…なのか?


『…初めては好きな人が良かった…それだけなんです』


俺はさっき聞いたばかりのアンさんの言葉がすっかりと抜け落ちていた。

だから、「そんな偶然はあり得ない」と結論づけてしまった。


すみません…。教えて頂いたのに少し混乱しています。だから何を言っていいのか俺にはわかりません…」


俺はアンさんの顔から視線を外し伏せた。

けれどアンさんは俺に追い打ちをかけるように話しかける。


「…でも、これは覚えていますよね?」

「何でしょうか…」


俺は話を聞きたくなくて、視線をテーブルに向けたまま告げた。


「私がハイボールを一気に飲んで、お店を飛び出そうとした時です」

「…」

「…やっぱり…、助けてくれたのは貴方でした」


動揺で身体が少し揺れたのだろう、半分になったココアの表面が少し揺れた。

これも偶然の縁だとアンさんは言いたいのか?


「だから、最後にお礼を伝える事が出来て良かったです」

「…え?」


最後と言う言葉で俺は顔を上げた。


「色々とありがとうございました」


アンさんは頭を下げると、笑顔で「さようなら」と言って、支払い伝票を持って席を立った。

俺は何が起きたのかよく分からなかった。

だからアンさんが店から出て行く姿を目で追い、店員の「ありがとうございました」の声を遠くで聞いていた。


俺は半分残したままのココアをどうする事も出来ずただ眺めていた。

けれどアンさんの「さようなら」と言った言葉が再び頭の中で過ると、これで良かったのかも知れないと思いだした。

だから最後のアンさんの笑みが、少しだけぎこちないものだった事を深く考えない事にした。


そう。

この時の俺は、すっかり抜け落ちたアンさんの本心も忘れていて、何も分かっていなかった。




******




その日からいつもと変わらない日常が訪れた。

それは松山と再会するまでだった日常で、アンさんがただのお客さんだった頃の日常だ。

ただその頃と違う事があるとすれば、俺が叔父になってしまった事。


俺は時々だけど、姉さんの家に呼ばれて食事の世話を任された。

里帰り出産の出来ない姉さんだ。明人さんと共倒れになっては困る。

俺は自分の空いた時間を姉さんの家で過ごす事が多くなった。


産後すぐの頃の姉さんは、一日中殆ど横になっていた。

産後1カ月程はあまり動かない方が、後々に悪い影響が出にくいらしい。

ソファーの主はベッドの主に変わっていた。


赤ちゃんの名前は、明人さんの「明」と「のべる」意味の「宣」で、明宣あきのぶになった。俺はノブとか、ノブちゃんと呼んでいる。


明人さんがノブちゃんのおしめを替えるのを見ていると、すっかり慣れたのか、男の子の小さいのをつまんで裏もおしりも綺麗に拭いていた。


「小さいけど、ちゃんとある…」

「女の子だったらショウ君には見せたくないかも…」


ノブちゃんの小さいのを見て俺が驚いていると、明人さんの複雑そうな言葉が返ってきた。まぁ、父親ならそう言うものかも。


「だったら次の子は見ませんよ」

「それはヨリちゃんに相談しないと…」


明人さんは恥ずかしそうにしていた。なるほど。明人さんの家族計画は二人目もあるらしい。

やがておしめを替えてもらったノブちゃんは気持ちよさそうに眠りだした。


ノブちゃんの穏やかな顔を見ていたら、俺は自分の叔父の事が益々分からなくなってしまった。

どうして俺を邪険に扱ったのだろう。だって俺はノブちゃんが一点の曇りも無く、ただ純粋に可愛い。


だから俺は今まで知りたくも無かった自分の叔父の事も少し考えるようになった。

もしかしてここにも誤解があるのだろうか。

赤ちゃんの顔は人の心を和ませるようだ。

少しは自分の叔父の気持ちを分かってあげても良いかもしれないと、そんな余裕さえ生まれていた。

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