第51話 それぞれの道(1)
休日の19時。
少しまばらなカフェの隅で真向いに座る男女。
「色々とすみません」
「あぁ、気にしないで。って、気にするか、普通」
「そう…ですね」
「うん、まぁ良いよ、別に拗れた訳でもないし」
再び「すみません」と言いながら再び頭を下げるたのは大川杏子だ。
「ほんと、気にしなくて良いのに」
そう諭しながらホットコーヒーを口にしたのは、元婚約者の前島晴臣だ。
杏子の手元には一通の封筒。
中身は婚約解消の合意書類だ。
晴臣は空気を読まなかったのか、逆に変える為か、さっきまで一緒にいた杏子の思い人の話を始めた。
結局あの後、上司の大川に用事があると言って家を出た。
そう、前島はさっきまで目の前に座る、大川杏子の初恋の、子供の頃にプロポーズした相手の、池田将司と会って話をしていたのだ。
「彼、可愛い所あるよね」
そんな事を知る由もない大川杏子は話が見えず戸惑っている。
「しょうくん」
「えっ?」
前島が口にした名前に杏子が驚き固まっていると、晴臣はその反応を楽しむかのように面白そうな顔をした。
「今日は前に会った時と髪型が違ってね。似てたなぁ、大川さんの若いに似てた」
「会ったんですか?」
「うん?あぁ、さっきまで大川さんの所に居たからね」
「そうですか…」
「でも中身は…ククク、まったく似て無いね」
晴臣は笑いを堪えるようにしながら、再びコーヒーカップに口をつける。
店で見た時はスッキリとした顔で、上司の大川と言うより、目の前の杏子の父親の雰囲気に近いものがあった。
けれど今日の『しょうくん』は前髪が降りているせいで少し幼く、話をしてみるとまだ青臭い子供のような人間だったのだ。
「やっぱりさ、杏子さんの初恋って彼なんでしょ?」
「え?」
「今でも好きなんでしょ?」
「…それは…」
「良いじゃん、そういうの」
「えっ?」
「悪くない…と思うよ」
そう言ってコーヒーを口にする晴臣。
まるで何かを思い出すかのようにコーヒーから上る湯気を見る。
「ま、円満解消に至ったので、一つ、懺悔」
「懺悔…?」
悪びれる様子も無く「懺悔」と口にする晴臣。
そんな晴臣の言動に戸惑いながらも話の続きを素直に聞く杏子。
「俺もずっと好きな人いたんだよ」
「えっ?」
「ま、だからお互い様って事で」
笑みを浮かべながら杏子にコーヒーを進める晴臣。
そんな晴臣の言動の真意が掴めない杏子は、戸惑いながらも言われるままにコーヒーに手を伸ばす。
そしてそんな素直な杏子を微笑ましいモノを見るかのような様子で晴臣は見つめる。
その視線に居心地の悪さを感じながら杏子はコーヒーを口にした。
苦くて温かなそれは喉を通り過ぎ、胸に広がる。
杏子の苦みが鼻を抜ける頃、晴臣もコーヒーを口にしていた。
晴臣の緩んだ口元から零れたのは、さっきの話の続きだった。
「見込みが無いというか、望むのは諦めたというか、そんな感じなんだよ」
「そう、ですか…」
「そ、だから、君に懺悔」
軽く懺悔と告げる晴臣。
その事に戸惑いを覚えていると、晴臣は急に真剣な眼差しで杏子の目を見た。
「でも、君と一緒に生きていく事に希望は見てたよ」
それは婚約者としての晴臣の誠実な言葉だった。
だから杏子は咄嗟に謝罪の言葉を口にした。
「っつ…すみません…」
頭を下げようとする杏子を止める晴臣。
「いや、だから気にしないで。きっと君も同じ気持ちだったでしょ?」
晴れやかな顔でそう言った晴臣。
そう、杏子も一度は晴臣と一緒に生きていく道を決めたのだ。
「ただ、君は誠実だっただけだよ、僕にも君自身にも」
まるで宥めるような晴臣の声。
「誠実…なんでしょうか…」
「もし、お互いに本気で向き合っていたら、解消にはならなかった…と思うけど」
そう。自分の気持ちを誤魔化して、無かったことにして結婚をする事も出来た。
だけどそれは未来の伴侶には誠実ではなかった。
だからこうして解消に至った訳なのだが…。
けれど、これが本当に正解で、良い事だったかどうかは分からない。
もしかすれば、そう言った事をぶちまけて、向かい合えばもっと違う未来があったかも知れない。
そんな事を考える杏子に、晴臣はお互い様だと言葉を重ねた。
「だからね、同じ方向を見ていたけれど、結局、向かい合ってなかったんだ」
「私と前島さんが向き合って無かったという事でしょうか?」
「…どちらかと言うと、自分自身にじゃないかな」
「自分自身に…ですか?」
「うん、まぁ先に自分に向き合ったのが、君だったと言う話だよ」
窓の外に目を向けた晴臣。
その視線に促されるようにして杏子も窓の外を見る。
「雪…になりそうですね」
「うん、まぁ直ぐに止みそうだけれど」
暫く窓の外の通りを眺める二人。
足早に駆ける人、傘をさす人。
それぞれの目的地へ向かい歩く人達。
「きっと、何事も無く一緒になったとしても、こうして今みたいに穏やかに過ごせたとは思う」
「…そう…ですね」
「でもどこかで言い出せない秘密を抱えているようで苦しかったかもしれない」
「…」
「だから、そこかでスッキリしてる」
そう言った晴臣の顔は晴れやかな表情を浮かべていた。
やがてコーヒーを飲み終えた二人は一緒に店を出て、商店街を駅に向かって歩く。
杏子の小さな折りたたみ傘に二人。
肩を並べばそれなりに雨を避ける事が出来た。
「それじゃ、また、お元気で」
「はい、また…。晴臣さんもお元気で」
改札を抜け、別れの挨拶を終えた二人はそれぞれのホームへと向かう。
また…と言ったけれど、きっと再び会う事は無いだろう。
けれどそれはお互いに言わなかった。
また会う日が来るかもしれない。
けれどそれは肩を並べる為では無い。
杏子が上ったホームの先、向かいのホームには既に電車が来ていた。
やがてドアが閉まり、発車の合図と共に走り抜ける電車。
空になった向かいのホームに晴臣の姿は無かった。
そして杏子の乗る電車が入線する。
曇ったガラスの中、人の影が動く。
停車した電車から吐き出される人々と、入れ替わるようして乗り込む杏子。
やがて電車は走り出す。
それぞれの目的地に向かって。
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