第52話 それぞれの道(2)

いつものように父さんの家に行く。

そして昼ご飯の用意をして、夕飯の支度を済ませ店へと向かう…。

今日もそんな一日になるはずだった。


けれど今日は、桜田さんの抱えていた不安…つまり桜田さんの心配していた事が起きてしまった。

それは小さな俺が受けた心の傷…。

そう、俺が忘れていた辛い記憶の蘇りだった。




*****




夕飯の支度を済ませ片づけを終えた俺は、父さんに声をかけ、この家を後にする事にした。


そう言えば桜田さんから鍵を預かったものの、2階へは一度も行って無いな。

ふと過ったのは一度も行けてない二階の事。

鍵を預かったあの日、桜田さんは二階の戸締りは済ませたと言っていたので、ずっと放置したままだった。


それは、父さんが一人で二階へ上がるとも思えなかった事と、階段の前を通る度に出て来る何とも言えない嫌な感覚からだった。


こんな具合だったので、俺が逃げるように避けていたのは事実だ。

それでも風通し位はした方が良いと思いなおし、帰る直前に二階へ向かう事にした。

こうして俺は意を決し、階段を上がる事にした。


慣れない階段を、手すりを頼りにしてゆっくりと上る。

戸建てには珍しい踊場があって、そこから天井を見上げた…。


見上げた先の薄暗い電灯に照らされた天井に既視感を覚えつつ、俺は気乗りしない感覚を抱えたまま二階へと上がった。


上がり切った先は、ちょっとした広間のようなスペースになっていた。

縦長の小窓がああり、そこから外の様子を覗いてみると、門から玄関に続く小道が見えた。


ここの窓は、開かないっぽいな…。

はめ殺しになっている窓に枠を確認しつつ、部屋の配置が分からない状態の二階の廊下を進み、一番奥の部屋と思われる場所へと向かう。


けれど奥の部屋へと着く前に気が向いたのは、何の変哲もない普通のドアだった。


何となく気になる思いに戸惑いながら、俺はドアノブへと手を掛けた。

鍵のかかっていない扉はゆっくりと開く。


そして俺は覚えのないはずの室内灯のスイッチの場所を探し当て、部屋の灯りを付けた。


そこに照らされたのは、何の家具も置いていない、ただの空き部屋だった。

俺は部屋の中へと進み、見覚えのないクローゼットを扉を開けた。


「ん…?」


クローゼットの床に小さなかごが置ていあり、その中には、小さく畳んだ布のようなものがあった。

その布のチェックの柄が気になった俺は、手を伸ばして布を広げげた。

大きなバスタオル位の布は、ウール素材で出来たマフラーのようだった。


「マフラー…にしては大き過ぎる?」


手にしたマフラーと思わしきそれを、何となくの気分で肩に羽織ってみる。

肩にかければ上半身が覆われる程度の大きさはあるようだ。


「別に普通の柄…だよな?」


どこかで見覚えのあるような気がするチェックの模様。

撫でてみるとウールの柔らかさと温かさを感じる。


「手触りが良い…。これ…高そう…だな」


撫でた感触からそう感じた俺は、苦笑いを浮かべ、そう独り言ちた。

そして元の場所に戻そうと、広げた布を畳もうとした時、何かが床に当たったのだろう、カチャリと小さな音を立てた。


「ん?」


チェックの布を裏返せば音の正体がわかった。

それはタグに付けられた小さな銀色のボタンだった。


「これ…は…?」


見覚えのあるそれは、銀色のボタン。

そして思い出すのは、あの日の情景…。


「っつ…」


そうか。

この布はひざ掛けだ…。


それはいつだったのだろう。

杏子さんの母親…つまり俺の叔母に当たる女性。

彼女が愛用しているひざ掛けを、ジロが引っ張って破けた事があった。


それで破れたひざ掛けは、そのままジロの愛用品となり、叔母は新しいものへと買いなおす事にした。

まだ本格的に冬が始まる前…だったような気がする。


叔母は買いなおすのなら、俺とアンさんにも同じものを…と言って、俺の分も用意してくれる事になった。


『将司君は、どの模様が好き?』


叔母にそう聞かれた俺は、ジロと同じものが欲しくて、叔母が使っていたものと同じ柄を望んだ。

それで叔母は、ジロのものと区別がつくようにと言って、銀色のボタンをタグに縫い付けてくれたのだ。


ジロとお揃いのひざ掛け。

それを喜んでいた小さな俺はいつの頃の俺だろうか。

そしてこのひざ掛けに包まって、台所の土間でうずくまって泣いていたのは、この家に住んでいた頃の俺だ。

どうして小さな俺は泣いていたのか…。


見覚えのあるひざ掛けの柄を見ていたらそれも一緒に出て来た。

それはこの家でに何度も問われたあの言葉が原因だろう。


『この子は何だ』から始まる、『何故ここに居るんだ』に続く質問。


俺はここに住んでいる間、あの人に俺が居る理由を何度も問われた。

そして小さな俺は、その言葉が自分の存在を疑われているように感じていたのだ。


そもそもここに連れてこられた俺は、母さんが逝ってすぐの頃だ。

無理やり姉さんと剥がされ、ここに住む事になった。

もちろん学校も変わった…と思う。

だからこの家は初めから居心地の良い所ではなかった。

だから叔母の優しさにすがるような思いもあったのは事実だ。


「でも、なんで…?」


そう。

なぜあの人は、俺の事をあんなに疑ったんのだろうか?

なぜあの人は、俺をあんな目で見ていたのだろう…。

大人になった俺が思い返すのは、冷たい眼差しで俺を見る叔父。


叔父となった俺はあんな目でノブちゃんを見る事なんて出来ない。

ノブちゃんの顔、母である姉さんの顔、父である明人さんの顔…。

三人の温かな家族の様子を思い返す俺…。


そしてふと気が付けば俺は泣いていた。


「え…っ、なんで…?」


ポタポタと手の甲に零れ落ちる涙に俺は困惑した。

そして急いで涙を拭おうとする俺の耳に入ったのは、廊下のきしむギシッという音だった。


俺はその音に導かれるようにして部屋の入り口を見た。

するとそこに居たのは、驚きて固まるアンさんだった。


「えっ?だ、大丈夫?」


泣いている俺の顔を見たのだろう、アンさんは慌てて駆け寄ってくれた。


「だ、大丈夫?怪我したの?」


クローゼットの前でしゃがんだ俺の目線に合わせるようにアンさんもかがむ。

まるで小さな子供を慰めるような顔のアンさん。

心配そうに俺を見る、そんな困り顔のアンさんを見ていたら、思っている事が勝手に口から零れた。


「同じ顔…」

「え?」

が泣いていると、キョウちゃんは、いつもそんな顔をするんだ」


俺は涙を零しながらも、安堵からだろう、笑ってそう告げていた。

そしてアンさんは困った顔のまま、俺の頭をゆっくりと撫でてくれた。

その優しさに気が付いた俺は、情けない自分を預けたくなった。


「…すみません。ちょっと分からないんです。、なんで泣いてるんですかね」


アンさんに合わせた目から勝手に零れる涙で、アンさんが滲んで行く。

そしてぼやけたアンさんは、ゆっくりと頷いてくれた。

だから俺はそれに甘えたくなって、アンさんの肩にしなだれかかった。


「…ごめんなさい…もう少しだけ…肩を…貸して下さい」


俺の声はかすれていて、情けなさを自覚しつつも、俺の思いをアンさんに伝えた。

アンさんは肩に乗った俺の重さに肩をゆらすも、おでこの横から落ちた俺の前髪を耳にかけてくれた。

そして、そのままゆっくりと手を滑らせ、俺の頭を撫でてくれた。


「すみません…」


アンさんの温かさにゆっくりと目を閉じると、溢れた涙が頬を伝わった。

そして目を開けると、零れた涙の先に少し濡れたスカートがあった。


「あ、すみません」


涙でスカートを汚した事に気が付いた俺は慌ててアンさんの肩から頭を上げた。

するりと抜けていくのはアンさんの手。

けれど、このまま離れるはずだったアンさんの手は、一瞬、宙で持て余すと俺の脇を通り、俺の背中へと回った。


「え?」


アンさんは俺を強く抱きしめていた。


「ア…キョ…?」


アンさんは、俺の戸惑いを聞き流すつもりなのだろうか。

まるで母親が子供を抱きかかえるような形で、俺の言葉を通り超えて覆いかぶさっていた。


「っつ!ア、アンさん!」


徐々に冷えていく頭で現状に気が付いた俺は、気まずさからアンさんの腕を振りほどき、そこから抜け出そうとした。

けれど抜け出そうとする俺に抵抗するかのように、アンさんはギュッと強い力で俺を抱きしめた。


「あ…アン…さん?」


困惑を抱えたままの俺はアンさんに真意を尋ねた。

それに抜け出せない…とは言えアンさんは女性だ。

俺が全力で拒めば、抜け出すのは容易いだろう。

だけど…。


それで良いのか…?

俺は迷いながらもう一度アンさんに問いかけた。


「あの…アン…さん?」


何度も問いかけたからなのか、アンさんの力がゆるやかに抜けて行った。

そしてアンさんの腕は俺から離れて行った。


俺は頭を下げて謝った。


「すみません…」


下げた目線の先には、膝一つ分離れて座るアンさんの膝が見える。

俺は何かを掴むようにぎゅっと拳を握りしめた。

そして徐々に体から抜けて行く、ゆるやかに薄れていくそれは、アンさんの柔らかさと温かさだった。


そして抜け殻のような俺の、最後に残っていたのは、たった一つの感情。

自分の気持ちに気が付いた俺は、それをアンさんへ伝えた。


「あはは、俺…寂しかったみたいです」


それは俺が泣いていた理由…。

俺は思い出に苦さを抱えつつも、泣いた恥ずかしさから笑って誤魔化した。

けれどアンさんから返って来た言葉は、思いもよらないものだった。


「私も…寂しかったんです」

「えっ?」

「もし…良かったら…なんですが、今度でいいので、聞いてくれますか?」


そう言って少し寂しそうな顔を見せるアンさんは、俺が「今度ですか?」と尋ねる前に言葉を重ねた。


「また今度で良いので」


そう告げたアンさんは寂しそうな顔のまま笑っているように見えた。

けれどその顔は、ずっと遠い昔にも見た事のある顔だった。


















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