第53話 それぞれの道(3)
父さんの家の二階で昔を思い出した日。
その日から俺は二階へ行く事が増えた。
そして記憶が少しずつ戻って来るような形で断片的な記憶が繋がり始めた。
時折気分が悪くなることもあるけれど、アンさんの肩に頭を預けた出来事が俺の中では大きかったらしい。
気分が動揺して、今の自分と思い出の自分が混乱するような事は殆ど無かった。
そして数日後、桜田さんが父さんの元へと戻ってきてくれた。
「随分とご迷惑をおかけしまして」
申し訳無さそうにする桜田さん。けれど家族が大変な時はお互い様だ。
それに桜田さんの方が父さんの事をずっと手伝ってくれているのだ。
「そんなの俺の方こそです。父さんだけじゃなく、俺の方もお世話になりっぱなしで…」
拙いながらも俺が感謝の言葉で返すと、桜田さんんは笑って答えてくれた。
桜田さんとの挨拶もそこそこに、俺はいつものように夕飯の準備を進める事にした。
そして後は煮込むだけとなった鍋を火にかけ、弱火の設定でタイマーをセットする。
「IHってのはこういう所が便利だよな」
ふつふつと煮えだした鍋を後にして俺はダイニングテーブルについた。
桜田さんは父さんの部屋へ行ったきり戻ってこないので、色々と話す事があるのだと思う。
席について「ふぅ」と息を吐けば、石油ストーブの上のやかんから、小さく湯気の漏れる音が聞こえた。
そしてそれに重ねるように聞こえるのは、いつも通り時間を刻む音。
タッ、タッ、タッ…
テーブルの上でうつぶせになってその音を聞く。
規則的に続く鈍くて重い秒針の音。
そんな心地の良い音に耳を傾けていた俺は、やがて夢の中へ落ちていった。
*****
「こんにち…」
少し声を落として台所へ入ったのは杏子だ。
玄関にあるのは桜田のものと思われる靴しか無かったけれど、こうして声を落としたのは、将司が居るような気がしたからだ。
「し~…」
杏子の声に振りむいた桜田は、人差し指で口元を押さえ、少し茶目っ気のある表情を見せた。
そして将司のものだろう、大きな黒のダウンジャケットを椅子の背もたれから外し、テーブルの上でうつぶせで眠る彼の肩へとかけた。
「寝て…る?」
杏子が小声でそう尋ねると、桜田は柔らかな笑みを浮かべながら微笑んだ。
「毎日来られてますからね、お疲れが出たのでしょう…」
「そっか…」
桜田が静かに椅子を引いて杏子に座るように促した。
「少し無理をなさっているようにも思います」
「えぇ?」
「けれど将司様は、取り戻そうとしておられるのかもと思い、止めはしませんでした…」
桜田が少し困ったような顔で眉を下げ、優しい目で見つめる先には、スゥスゥと静かな寝息を立てている将司が居た。
息を吐くたびに下がる肩と柔らかな髪の毛。
「取り戻す…とは、彼の小さい頃の記憶ですか」
「…それ以上の事もあるのかと」
「?」
「旦那様と家族であった時間のような気がします」
「家族であった時間?」
杏子がその真意を尋ねると、桜田は茶碗にお茶を煎れて杏子へ差し出した。
受け取った杏子がふぅと息を吐いてお茶を冷まし口にする。
「うん、美味しい」
お茶を口にした杏子の声に、桜田も頷きながら答え、自分のお茶を煎れた。
「先ほどの話ですが、将司様が失った旦那様との時間の先にあったはずの時間…と言いますか…」
「叔父様と離れずに居れた可能性…の話ですか?」
杏子の問いに柔らかな笑みで返す桜田。
「えぇ。もしずっと共に暮らしていたら、旦那様とどう接していたのか?そんな事をお考えになったかも知れません。
もちろん、これは私の推測なので違っている可能性もありますが、でももし、そのような考えに至ったとしたら、それは頼子さんと過ごした今の将司様のお考えなので、そうなると少し妙な話かも知れませんね」
桜田の答えに促されるように、杏子は将司の方を見る。
「…そう…かも知れませんね」
その言葉は、まるで自分を納得させるような言い方だった。
だから桜田は杏子の少し寂し気な目に宿る、杏子の思いの断片に、自分が見て来た杏子の生い立ちを重ねた。
そんな桜田の思いを知ってか知らずか、杏子は桜田にお礼を伝えていない事を思い出した。
「そう言えば、先日はありがとうございました。連絡を頂けて良かったです。彼の方も大事にはならなかったみたいですし…」
「いえ、私も心配だったもので…」
茶碗に手を添えて冷えた指先を温める杏子。
将司の方へ目を向けいた彼女は、さっきとは違う少しだけ苦い笑みを浮かべていた。
そう。
二人が話題にしているのは、将司が二階へ行った日の事だ。
「結局、あのひざ掛けだけは処分して良いものかどうか、最後まで分からずで。有耶無耶にしたまま置いていたのが良くなかったのですね」
「桜田さんのせいじゃないわ、私でも捨てて良いか分からないもの…。でも、今になって思えば捨てなくて良かったとかも…」
「…良かったとは?」
「だって、捨てたものは戻ってこないもの…」
まるで自分に言い聞かせるように答える杏子。
そんな杏子を知ってか知らずか、桜田は向かいで眠る将司を見ていた。
「記憶って…自分の頭とか心の中にあるものだと思っていたけれど、本当は風景や物に溶けているのかもね…」
「と、言いますと?」
「だって、彼ったら私を見ても誰分からなかったのに、玄関の花とか、ひざ掛けとか…そんな小さな物とかは覚えているようだから」
「そう言えば…。私の時は、将司様がココアを飲まれた時でした…」
「ふふ、じゃぁ、やっぱり思い出は、人間の中じゃない場所にあるのかしら?」
「…そう言われると、そうかも知れませんね」
「そうだとしたら、ちょと悔しいわ」
「…そうですね」
話の着地点の可笑しさに、二人は苦笑いのような笑みを浮かべ顔を見合わせた。
するとキッチンの入り口から将司の父である啓司が入って来た。
「何だか楽しそうじゃ…」
「し~…」
のんびりとした口調で話しかけてきた叔父の声に、杏子が人差し指を唇に当てて、それ以上話を続けないように注意をした。
「ん?…あぁ、将司?寝てる…のか…?」
杏子のはす向かいでうつ伏せで眠っている将司。
寝息と共に肩や髪が、ゆるゆると揺れている。
その微笑ましさに啓司は目を細め、将司の隣の席についた。
「良い匂いがするし、何となく楽しそうな雰囲気がしたから」
少し声を落として話を切り出す啓司。
桜田は啓司のお茶を煎れる為、席を立ちシンクの方へ向かう。
「確かに良い匂い。煮物?おでん?かしら」
「あぁ、おでんっぽいな。良いな、杏子も食べていくか?」
「えぇ?私の分もあるのかしら?」
「あるんじゃないか?」
「ふふ、叔父様は適当なんだから」
いつもは冷ややかな雰囲気の台所も、四人集まれば賑やでいつもより温かな雰囲気になった。
カタカタと風が窓を揺らすも、穏やかに時間を進める秒針が刻む音の中、将司はまだ夢の中にいた。
「よく寝てる…」
啓司が見つめる先、杏子も同じ様に目を細め将司を見た。
「まだお若いですしね」
啓司へのお茶を煎れながら杏子の独り言に答えたのは桜田だ。
その光景に安らぎを感じたのは啓司だった。
「なぁ…杏子」
「ん?」
「将司には頼子さんが居るけれど…」
「うん」
「お前も将司の家族として居てやってくれないか?」
「え?」
「いや、別に一緒に暮らせとか、そういう事じゃ無くて…」
啓司の真意を尋ねるべく杏子が見つめると、そこに居たのは、柔らかくもどこか苦い顔をした啓司だった。
「叔父…様?」
「一人は寂しいだろうなぁって」
「…そう…ですね」
「将司に良い伴侶が出来れば安心なんだけど」
「…えぇ」
「それを見届けるのは出来ないかも知れないから」
「…そんな…」
「杏子には嫌な話かもだけど」
「…そうですね、嫌ですね」
自分が逝った後の心配を続けようとする啓司。
そんな啓司の言葉に杏子は拒絶の言葉でくぎを刺した。
けれど啓司は柔らかな笑みで杏子に返した。
「一人になった将司を、少しだけ気にかけて欲しいなぁって、だけの話なんだけどなぁ…」
そう告げると、啓司は寝息で柔らかに揺れる将司を見つめた。
タッ、タッ、タッ…
相変わらず規則的に時を刻むのは、鈍くて重い秒針の音。
三人が見守る中、将司はまだ夢の中でまどろんでいた。
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