第54話 それぞれの道(4)

その人は突然店にやって来た。


「いらっしゃいませ」


その人…アンさんの婚約者は、俺の真向いのカウンター席にやって来て、少し大きな体を椅子に収め、襟元を寛げネクタイを緩めた。


「ジントニックを…」

「かしこまりました」


その人は俺の手元をじっと見つめ、ジントニックが出来上がるのを見ているようだった。


「お待たせしました」

「うん、ありがとう」


差し出したジントニックに嬉しそうな顔をして受け取り、そのまま口にする。

太い喉がコクリと動く。

その人はグラスをテーブルの上に置くと、少し意地悪そうな笑みを浮かべ俺の顔を見た。


「なぁ、宿題出来た?」

「まだ…です」

「ふ~ん、取り組んでるんだ」

「…まだ…です」

「そっか」


俺の答えにその人は少し微笑むような顔で頷いた。

どうやら俺の返事に悪い気は起きなかったらしい。

彼は再びジントニックに口を付けると、ふぅと息を小さく吐いて話し切り出した。


「しょうくんは若いから分からないかも知れないけど、意外と時間って直ぐに経つんだよ」

「え?」

「それでさ、放置してた話はいつの間にか言い出せない位、遠い過去の話になってたりする」

「…そう…ですか」


突然始まった、道の見えない話に曖昧な相づちをした。

そう言えばこの人、父さんの家で会った時も一方的に話を振り続ける人だったような気がする。


「今更…ってやつ、わかるだろ?」

「はぁ…」

「それに男の方がみみっちくて、女性の方が意外と平気で忘れてる」

「そう…なんですね」


俺の相づちは、まるで聞き流すかのような雰囲気だ。

その人は俺の声を聞き流しながら、まるで何かを思い出すように、俺の背中に並ぶお酒の入ったボトルを眺めていた。


「女性は引き出しが多いのかも知れない」

「引き出し…ですか?」

「うん、男は引き出しが一つしかない」

「…えっと?」

「つまりさ、あいつの開けてる引き出しは、俺のじゃないって事。昔の男の事なんてさっさと閉じれば良いのにって話」


う~ん。どうも話が見えない。

あいつ…と言うのはアンさんの話…のようには思えないし、何なのだろう。


俺が頭を悩ませながら答えの選択を持て余していると、話が聞こえたのだろう、常連客のサユさんが声をかけて来た。


「ふふ、ゴメンね、面白そうなお話だけど、さっきからショウ君が困惑してる。彼に分かるように話してあげて?」

「え?あぁ、そっか。すみません…」


まるで小学校のベテラン先生のように、宥めながら話をまとめるサユさんに、その人は素直に謝った。

そして謝罪の言葉をとっかかりに、サユさんが話の中に入ってくれた。


「えっと、引き出しの話はまさかの恋愛相談かしら?」

「え?」

「女性の話…のようだったから。だったら尚更ショウ君には難しそうにみえるけれど?」


今度はいたずらっ子のような目で俺の方を見るサユさん。

流石にそれはちょっと酷い。


「ショウ君はいい男だと思うけれど、少し幼いようだし、女性の話は難しんじゃないかしら、ね、マスター?」


急に話を振られたマスターだが、少しだけニヤッとした笑みを浮かた。

どうやら少しだけ悪乗りに乗っかるらしい。


「それは、彼の名誉の為に答えかねますね」

「ちょ、マスター」


マスターは、多分だけど俺の女性遍歴を知っている。

だからサユさんの話に面白そうに乗っかることで、俺の女性遍歴がサユさんにバレた…。いや、最初からサユさんにはバレているのか…?


それが少しだけ面白く無くて、俺は素が出たかも知れない。

だから、ふぃと横を向いた顔は少し拗ねていた表情が出ていたのだろう。


「ぷっ、あはは、やっぱりしょうくんは可愛いな」


アンさんの婚約者は俺の方を見ながら笑い出した。


「はぁ?」


「可愛い」と言ったその声に振り向けば、アンさんの婚約者は「ククク」と我慢しながらも笑い声もらしながら楽しそうだった。

だから俺は生意気ながらもアンさんの婚約者に少し食って掛かった。


「あのねぇ。お客さんでもそれはちょっと失礼じゃないですか?」

「あはは、『お客さん』って他人行儀だな」

「他人行儀って…」


あんた、他人でしょうに…。

そう言いかけた俺にアンさんの婚約者は先に自分の名前を告げた。


「晴臣」

「え?」

「だから、別に他人なんだけど、名前で呼んでよ。しょうくんの事、結構気に入ってるんだけど?」

「は?え?俺そっちの趣味は無い…ってか、お客さんと不倫とかそんなの困ります…」

「あはは、何それ?警戒しすぎ。やっぱ、可愛いじゃん」

「えぇ…」


俺の困惑する姿を見て、勝手に楽しんでいるアンさんの婚約者。


「だから、晴臣だって」


話がまるで見えて来ない。けれどここはお店、彼はお客さんである。

俺は訳が分からないままながら、彼の要望通り、名前で話しかける事にした。


「はぁ…。それで、その晴臣さんの言う、引き出しとは一体何の話ですか?」


少しぶっきらぼうに話を切り出した俺。

そんな俺の態度が全く気にならないのか、晴臣さんは嬉しそうな顔でにこやかな笑みを浮かべていた。


ん?

そう言えばさっきから妙にテンションが高い。

それに前に家で会った時の威圧感のようなものが無い…。


「…あれ?もしかして酔ってます?」

「あはは、うん、そうみたい。俺、顔に出ないから」

「え…これ飲んで下さい」


そう言って水の入ったグラスを差し出せば、晴臣さんは一気に半分ほど飲み続けた。

そして、グラスをカウンターに置くと、ふぅと息を吐いた。


「もっと要りますか?」

「いや、べつに酔っても体は平気」

「それは…羨ましいですね」

「でもさ、酒の力を借りないと言えない事もある」


半分になったグラスの氷を見つめながら晴臣は話を続ける。


「そうかも知れませんね」

「んだよ、しょうくん冷たくない?」

「えっと…」


相変わらず晴臣さんの話が見えない。

俺はサユさんとマスターに助けを求めるべく目を合わせたが、二人はニコリと微笑むばかりだった。

はぁ。

どうやら晴臣さんの話は、俺が聞かないとダメらしい。


「それで、お酒の力を借りて、一体、何をして来たんですか?」

「何を?って、決まってんじゃん、あいつを口説いたんだよ」

「え…」


何だよそれ。

なんの罰ゲームだよ。

なんであんたがアンさんと仲良くやってる話を聞かないといけないんだ。

だけど、今の晴臣さんはお客さんだ。

俺は自分のいら立ちが出ないように頭を切り替えて話を聞く事にした。


「仲良くされているのなら良いんじゃないですか?」

「え~仲良く出来てないから困ってんじゃん」

「っ…」


さっきから晴臣さんは妙に子供っぽい。まるで学生のノリのようだ。

どうも晴臣さんは酔うと子供っぽくなるらしい。

いや、こっちの方が素の晴臣さんなのかも知れない。


「だってさ、結婚する前からだよ?それにあいつより、俺の方が先にあいつの事好きだったのに」

「えっと?結婚するなら、別に良いんじゃないですか?」

「だから、なんで俺はあいつと結婚するのを黙って見てたのか?って話だよ」

「…?」

「そりゃ、今更だよ?だけどあいつと別れたのもずっと前の話だし、また口説いてもいいじゃん」


んんん?

別れた?また口説く?

これ、アンさんの話…じゃないな。

てか、こいつ。アンさんは居るのに他に女を口説くつもりか?


断片的な話から見えるアンさんへの裏切りに、俺は怒りがこみあげて来た。

けれど、人間は怒りが過ぎると少し冷静になるらしい。

酔って口が軽くなった晴臣…いやもう、コイツで良いや。

コイツの浮気相手の話を聞き出してやろうと思考を切り替えた。


「えっと、あいつって言うのは、誰の事ですか?」

「え?あぁ、しょうくんに言ってなかったっけ?」

「さっき初めて聞きました」

「え~っと、そうだっけ?あいつ…?ん?どっち?」

「どっち…」

「えっと、『奥』の事だっけ?まさか『松下』か?」

「あ…えっと、口説いたの言うのは?」

「あぁ、なんだ?お前、杏子さんがいるのに、奥にまで手を出すつもりか?」

「は?」


それはお前の事だろが!

そう突っ込みを入れる前に、こいつは急に真面目な顔をして俺に説教を切り出した。


「しょうくん、それは最低だぞ。最低な奴は松下だけで十分だ。君はもっと杏子さんと話し合うべきだ」

「なっ!」


まるで自分の事を棚に上げたような話に俺は切れた。

そして頭に血が上ったままで話を切り出そうとした時、それを止めてくれたのはマスターだった。


「ショウ君、勘違い!話が行き違ってる」

「え?」


優しい顔をしながらも、強い力で俺の腕をつかみ、後ろへ引っ張り続けるマスター。その力にマスターの本気を見た俺は力を抜いた。


「お客さん、何か飲まれます?」

「あ?うん、じゃあウイスキーもらおうかな。マスターのお勧めのやつ、ロックで」

「かしこまりました」


まるでこれで終わりと、マスターが俺から離れボトルを選んでいる。

少し気持ちが手持ち無沙汰になった俺を気遣ってか、サユさんが声をかけて来た。


「私はショウ君の勧めのウイスキーを貰おうかな。お湯割りでお願いします」

「はい、かしこまりました」


気持ちを切り替えそう答えると、まるでそれが正解とばかりにサユさんは笑って返してくれた。

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