第50話 構築(6)
アンさんの婚約者は俺の髪型が気になるようで、さっきから額の上ばかり見ているようだった。
俺は気恥ずかしさから前髪を軽く掻き上げ、その視線を誤魔化した。
「店では前髪が邪魔なんで…」
「うん、随分と印象が変わるものだ…」
少し目を細めるようなその顔は、何かを思い出しているような雰囲気だ。
「そうか、ちゃんと家族が居たんだな…」
小さく呟いたアンさんの婚約者は、ホッとした表情を浮かべているようだった。
頬が少し緩んだ柔らかな表情…。
そんな顔を見れば、俺の事を悪くは思っていないようだ…。
そう感じとれた安堵からだろう、俺は色々と考える余裕が生まれた。
そうだな。
バーで会った時の事を思えば、少しは釈明をした方が良いかも知れないな。
俺は意を決してその事を話す事にした。
「あの…」
「うん?」
「あの…アンさん…いえ、キョウコさんの事ですが」
「うん」
「俺、覚えて無くて…」
「は?」
俺の状況を伝えただけ…。
けれど、その言葉を聞いたアンさん婚約者の顔は、厳しい表情へと変わった。
しまった。間違えたか。
そう思うも、今更だ。出した言葉の訂正は出来ない。
「すみません、でも嘘では無くて。それと少しずつ思い出してきてはいるのですが、正直に言えば俺も戸惑ってます」
そんな良い訳のような文言に、アンさんの婚約者は疑うような目をした。
先ほどとは違う冷えた空気。
そんな冷たさにさらされた俺は、それから逃れるように視線を下げた。
「…」
沈黙の空間。
そのいたたまれなさに我慢をしていると「ふぅ」と息を吐く音が聞こえた。
そうだよな。
『…恥ずかしい話になるんだけど、彼女は子供の頃からずっと好きな人が居たらしくてね、結婚を前にそう言う話を聞いたものだから』
その問いに俺は否定をしたのだ。
『僕がここに来たのは2年と少し前ですからね』
本当に忘れていたから、あの時の言葉に嘘は無いけれど、説明だけ聞けば結果的に嘘をついた事になる。
どう言えば誤解が解けるだろうか?
どんな言葉で釈明を続ければ良いのか悩んでいたら、耳に届いたのは「そうか」と言うアンさんの婚約者の声だった。
「え?」
その声に驚き目を向けると、アンさんの婚約者はスッキリとした表情をしていた。
まるで何かの踏ん切りがついたかのようだ。
俺はその顔の表情が何を意味するのか見いだせず、ただ「すみません」と謝罪の言葉を口にするだけだった。
謝罪の言葉を出したのは、そうする事が正解だと感じたからだ。
けれどそれは正解では無かったらしい。
「えっと、なんで謝った?」
「え?」
「だって、覚えてなかったんだろ?」
「え?」
まるで、俺の言葉を信じるかのような問いかけだ。
「はぁ…。さっきからその顔はなんだ。まるで俺がイジメているみたいじゃないか」
そう言って、少しムッとした顔で俺を睨むアンさんの婚約者。
「…すみません」
俺が再び謝ると、アンさんの婚約者は、またため息を零した。
「で、君、いくつなの?」
「え?」
「何歳?」
「あ…っと、26です」
「あ~っと?…そうか」
「…」
「まぁ…そうか、そんなもんか」
「え?」
うんうんと頷くアンさんの婚約者。
俺はその頷きの意図が読めない。
「26か、だったらまだガキみたいなもんか」
「…」
「偉そうに仕事してても、まだ中身は子どもだって話」
「そう…かも知れません」
「だろ?まぁ、俺もそんなだったしな」
「はぁ…」
「俺が大川さん…君の父親と出会った時もその位の歳だったな」
「え?」
急に話題が変わる。
その事に戸惑いつつも、思い出にふけるアンさんの婚約者の機嫌を損ねないように、俺は相づちを打つ事にした。
「えっと。、そう…なんですか?」
「きっと偉そうなガキだと思われてたんだろうな」
そう言って笑うアンさんの婚約者は、以前バーで会った時よりもよりも、ずっと年上に見えた。
あぁ、そうか。
この人も大人なんだ。
俺をガキだと言い切るその言葉に納得すれば、するりと口から諦めが漏れだした。
「また店に来て下さいよ」
「えぇ?」
「アンさん…いえ、キョウコさんと二人で」
「…」
「お祝いにご馳走させてください…」
「君…」
「一応、俺は従弟?みたいですし…」
「それ…何?」
「え?」
「お祝いって…」
そう言ったアンさんの婚約者は、怪訝そうな顔をしている。
「え?っと、結婚…の…ですけど…?」
「それ、まさかだけど、キョウコさんに言って無いよね?」
「え?」
「まさか…」
「え?一緒に来て欲しいとは…言いましたけど…?」
どうして驚いた顔をしているのか。
その答えが分からない俺は、戸惑うばかりだ。
「あの…?」
俺が真意を尋ねようと言いかけた時、言葉を上に重ねたのはアンさん婚約者だった。
「あのさぁ」
少し強めの口調。
俺はアンさん婚約者の話を聞く事にした。
「…はい」
「結局さ、君は何なの?」
「え?」
「君はキョウコさんの、何なの?」
「え…アンさんは…」
「だからその、アンさんって何なの?」
煮え切らない俺の答えは不正解だったらしい。
アンさんの婚約者は、俺につっかかる。
「あのな、お前、女を知らないガキじゃあるまいし、いい加減に気がつけよ」
けれどその言葉にカチンと来た俺は、遥かに子供だったらしい。
「は?」
「って、なんでお前がキレてんだよ」
「だっ、関係ないだろ!」
「は?関係あるだろ!」
ほぼ初対面のような形の男にあっさり女性遍歴を見破られた俺。
俺はいたたまれない気持ちを誤魔化すように、噛みつくように言い返した。
「だから!女を知らんとか、そんな話どうでもいいだろ!」
俺の言葉は衝撃的なものだったらしい。
アンさん婚約者はその言葉に暫く固まると、じぃっと俺の顔を見ていた。
「え?は?…まさか…おま、その顔で…」
「は?んだよ」
「お前、あの人の息子…だよな?」
「…知らん」
「…いや、知らんって…」
「実際知らねぇ事ばかりだよ!覚えてねぇって言っただろうが」
「…あ…いや、その…」
それは売り言葉に買い言葉。
そんな俺の言葉に戸惑うアンさん婚約者。
良い年をした大人の戸惑いを目の当たりにすれば、俺も少しは冷静になれたらしい。
俺は投げやりながらも謝罪の言葉を口にした。
「はぁ…、って、すみませんでした」
「え…」
「すみませんでした。でもそれは関係ないですね」
「え?」
「だから、童貞とか関係ないです」
「あ、そっち」
「っつ!」
どうやら話が行き違っているらしい。
しかも俺はなんで、こんな話を暴露してるんだ…。
いたたまれなさに俺は顔を背ける。
するとアンさん婚約者はプッとふき出して、やがて大きな声で笑い出した。
「いや~すまん、すまん。俺も言い過ぎたわ」
「…」
「いや…ほんとすまん」
「別にいいです」
「いや、ほんと、ごめんなさい」
「…はぁ…もう良いです」
少し笑いながらも、年上の男性に何度も謝罪の言葉を口にされれば、答えないわけにはいかない。
俺は面白くない気持ちを誤魔化すかのように、冷めた茶碗に手を伸ばし、ゆっくりとお茶を飲んだ。
「はぁ、でもなぁ…そっか…そう言うもんなのか?」
「何ですか、さっきから」
「なぁ、改めて聞くけど、お前にとってキョウコさんって何なの?」
「え?」
急に真面目な顔をしたアンさん婚約者は「先に言っとくけど、変に誤魔化すなよ」と言って、同じく冷めきったお茶をガブリと飲んだ。
誤魔化す…?
いや、いや、いや。
まさかバカ正直に「あなたの婚約者を好意的に思ってました」なんて、言える訳がないだろう。
俺はふぅと息を吐いて、当たり障りのない答えを口にした。
「戸籍上は他人ですけど、一応、従弟ですね」
「…」
「それと…勤めている店の常連さんです」
「ほ~」
「…何ですか?」
「で?」
「え?」
「だから、続き」
「続きって…」
「ま、今日はこん位で許してやるか」
「え?」
そう言って独りで何かを納得しているアンさん婚約者。
その真意が分からない俺はただ戸惑うばかりだ。
「続きは…そうだな、宿題な」
「は?」
「ガキがする事と言えば、宿題だろ」
意地悪そうな顔でそう言って、アンさん婚約者は席を立った。
「ま、次ぎに会うまでに考えとけよ」
そのまま俺の方へと近づき、髪の毛をぐしゃぐしゃと撫でまわした。
「お、意外と柔らかいな…」
「はぁ?」
「あはは、じゃあな、見送りとか要らんわ」
撫でる手から逃れるように体をよじると、アンさん婚約者は俺の顔を見ずに手をひらひらと振って出て行った。
「何だよ…、態度、変わり過ぎだろ」
そう独り言ちれば、思い出したのは「宿題」と言われた事。
「は?…宿題って…何だよ…」
アンさんの婚約者の言動に呆れながらも、さっき撫でられた頭の事を思えば、妙に照れくさい。
「何だよ、あの人」
けれど考えれば考えるほど、俺は戸惑いが増すばかりだった。
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