第5話 名前
アンさんと別れた翌日…と言いたいところだけど、朝帰りだろうが何だろうが大人は仕事を休めない。その日の夕方、俺は再びと言うか、お店に戻ってきた。
「おはようございます~」
「ショウ君、昨日はごめんね~」
「いえ、全然、大丈夫でしたよ」
既に店に着いていたマスターは、申し訳ないとばかりに謝って来た。
俺は笑って返しながら、自分の荷物を置きにカウンターの中に入る。
カウンターの中でマスターは、お酒の残量を確認している所だった。
「あ、そうだ。今朝、お客さんと一緒に、食パンとサラダを朝ごはんに頂きました」
マスターが手を止めてこちらを向いて目を丸くしている。
「え?」
「あれ?ダメでした?」
いつもは食材を使って食べても、後で言えば了承してくれるのに…?あぁ、やっぱり時間外にお客さんに出すのは、まずかったのか。
そんな事を考えながら今朝の出来事を思い出していると、マスターは驚いた顔のまま俺に尋ねて来た。
「アンさんって、朝まで居たの?」
「え?あぁ、一緒に寝てたんで…」
「寝たの⁉」
「え?はい、気付いた時には朝になってました」
「え?っと、ん?朝?」
困惑した様子で微妙な表情を浮かべるマスター。その困惑ぶりに、俺はマスターが変な方向へ勘違いしている事が分かり、「はぁ」と大きくため息を吐いた。
「えっと、違います。気が付いたらソファーに座ったまま、二人で眠ってたって感じで、そう言うのじゃないです」
「あ~」
俺の返事を聞いて、マスターは合点が行ったらしい。
「全く…。マスターじゃないんですから…」
ジトっとした目でマスターを睨みつけると、乾いた笑みを浮かべて目をそらされた。
「はぁ。お陰で、まだ腰やら肩やらが変な感じがします」
「ちょ…」
「だから!変な態勢で寝てたんでっ!」
どうにもこうにもマスターは下世話な話の方向に持って行きたいらしい。
本当に何もないって言うのに…ほんと、勘弁願いたい。
それにだ。そもそも、俺を信用して店に置いて行ったくせに…。
やがてそんな雑談のような報告も終わり、店を開ける時間になった。
開店してしまえば、いつも通りの忙しい日常。
お客さんが来て、お酒を出してを繰り返すうちに、店を閉める時間が近づいてきた。
土曜日の夜は常連さんが多い。気が付けば残るお客さんは、いつのも常連さん2組だけになっていた。
「俺はやっぱり、ゆうじろうが良いね」
「ゆうじろうあぁ、あんた、若い時から好きだよね」
「そう言うみっちゃんは、ゆうじろうに興味が無さそうだなぁ」
どうやら今日の俺は、やたらと「じろう」が気になるようで、食器を片付けながらも、先ほどからゆうじろうの「じろう」という言葉に反応してしまう。
それにご年配のお客さんの中では、「じろう」と言うのはそう珍しい名前では無いらしい。因みに「みっちゃん」と呼ばれた男性の名前は「
そうだなぁ、名前なんて色々な組み合わせがあるもんな。
そんな事を考えながらカウンターを背に食器を片付けていると、独りで楽しんでいる常連のサユさんが声をかけて来た。
「そう言えば、ショウ君の名前って、かけるとか飛ぶの翔だっけ?」
「あ、いや、ショウはニックネームですね」
「へぇ~、てっきり飛翔の翔の字かと思っていたわ」
「普通はそうですかね?」
俺とサユさんとの会話に『ゆうじろう』で盛り上がっていた常連さんが入って来る。
「お、なんだ?ショウ君の話?」
「へぇ、サユちゃんがショウ君を口説いているのか?珍しいね」
「ふふ、ショウ君の名前のお話よ」
入って来たのは男性の常連さんだが、サユさんとは顔なじみだからだろう。
やがて3人で盛りあがり始めた。
「じゃあ、ショウ君のショウはどんな字だ?あ、あれか!大将の将か!」
「なんだ、それじゃ、あんまり今風じゃねえな」
「うふふ」
常連さんの盛り上がりに、マスターがやんわりと入る。
「最近はお店でも、あんまり本名を出さない子もいるんですよ」
「へぇ~。そういや、ニュースで店員の名札をニックネームにする話とかあったな」
「逆にあんまり気にしないで、ネットに上げる子もいますけどね」
「あぁ、あれだ!時々、若い子がバカやってるの見るねぇ」
マスターは話を逸らすのが上手いなぁ。
俺は感心しながらマスターと常連さんの会話に耳を向ける。
「ふふ、じゃぁショウ君は、恥ずかしがり屋さんなのね」
「なんだ、イケメンの癖に!」
「あはは、みっちゃん、またそれだ!」
どうやら話が逸れて、今度は俺の外見の話になった。とは言え俺は別にイケメンでも何でも無い。きっとお客さんは「イケメン」という言葉を言いたいだけなのだろう。
やがて常連さん達は「イケメン」の話で盛り上がり始めたようで、俺の話は知らぬ間に終わってしまった。
こうして今夜も無事にお店を閉める時間になった。
「ありがとうございました」
「マスター、またな!」
「サユちゃん、今日はのんだねぇ」
「今日はね」
俺とマスターも常連さんと一緒に店の外に出て、お客さん3人を見送る。
「ありがとうございました」
「ショウ君もまたな」
「ポテサラ旨かったよ~」
「じゃあね、ショウ君、お休みなさい」
「はい、お休みなさい」
頭をさげた後、手を振って見送れば、3人が手を振りながら角を曲がっていくのが見えた。やがてお客さん達の姿が見えなくなると、俺は店の外を片付け始めた。
名前かぁ。
昨日の『じろう』も気にはなるけど…。
「俺、アンさんの名前、まだ知らないんだよな」
そう零して見上げた夜の空は、まるで俺の言葉にそっぽを向くような、薄い三日月が小さく浮かんでいた。
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