第36話 放っておけない人(3)

病室の主は痩せた体を起こして、ベッドの傍の窓から外の景色をぼんやりと眺めていた。


「最近は食欲も出て来た気がする…少し調子も良いようだ」

「…それは、ようございました」


そんな他愛の無い会話を交わしながら、初老の男性はベッドの上の主にお茶を用意していた。


「そうか、もう杏子が来る時間なのか」

「お嬢様も渡米の準備がお忙しいようですから、なかなか会えなくて寂しいですね」

「…晴臣君とは上手く行ってそうで良かったよ」

「左様で…」


そんな会話の中、ゆるやかなノック音と共に「杏子です」と言って一人の女性が病室へ入って来た。


「叔父様、お加減は如何です?」


病室に入った大川杏子は叔父に挨拶をすますと、初老男性に促され、ベッド傍の椅子に座った。


「最近は少し食欲が出て来たんだ…」

「それは良かったです。そう言えば、前よりも顔色が良いようですね。何かいい事でもありました?」


そんな杏子の率直な質問にベッド主は直ぐに答える事が出来なかった。

その主に助け舟を出したのは、初老男性だった。


「将司様がお見えになりました」


その言葉に杏子はハッと息を飲むと、初老男性に顔を向けた。


「ここに…来たのですか?」

「えぇ…私がお願いを申し上げまして…」

「桜田さんがですか?」

「はい、差し出がましい事をいたしましたが…」


桜田と呼ばれた初老男性は少し目線を下げた。


「将司を見た時は驚いたけどね…。でも感謝してるよ」

「…旦那様…」


ベッドの上の主は桜田に感謝の言葉を述べ、少し微笑んだ。

そんな二人の様子に、杏子は「そうですか」と呟き俯いた。


「…杏子?」

「…」

「急にどうした?」


杏子は先日から自分の考えを伝えるべく、ずっと言葉を選んでいた。

けれどどんな言葉を選んでも、今から告げる自分の決断が叔父を傷つけるのだと理解をしていた。

それでも出来るだけ…傷をつけないように…。

杏子は先の長くない叔父に、出来るだけ負担の無い言葉を選んだつもりだった。


だけど、それもここへ来て飛んでしまった。

まさか叔父の口から「将司」の名前が出るなんて。


黙り込む杏子の、握りしめられている拳に入る力に気が付くと、叔父は優しく諭した。


「杏子…言わないと分からない」


その言葉に杏子はゆっくりと顔を上げた。そして意を決して用意していた言葉では無い、素直な自分の気持ちを口にした。


「アメリカには行きたくないんです」

「杏子?」


思わず言ってしまった…。

そんな杏子の表情をくみ取った叔父は、彼女の真相を確認するべく、その理由を尋ねた。


「…晴臣君と…何かあったのか?」

「…」


何も答えられず、黙り込んで俯いてしまった杏子の様子に、桜田は静かにお茶の乗ったトレイを差し出した。


「まだ来られたばかりですし、お茶でもいかがですか?」


少し微笑むような表情のままトレイを指し出す桜田。

けれど杏子はそんな桜田の顔を見ずに、俯いたまま黙ってお茶を受け取った。

それでも素直にお茶を受け取った杏子に、桜田は少しの安堵を覚えると、同じくベッドの上の主にお茶を差し出した。


「旦那様、私は少し席を外したほうがよろしいようで…」


桜田の提案に、ベッドの上の主は静かに頷いた。

桜田は杏子の様子を静かに伺うと、ベッドの主に目くばせをして部屋を出て行った。


桜田が静かに病室を出ると、その後を追うように、引き戸の扉がパタリと静かな音をたてて閉じた。

そんな小さな音が合図になったのか、杏子は震える拳でスカートの布をぎゅっと握り、用意していた言葉を語り出した。


「…晴臣さんは何も悪くないんです」

「…」

「本当に…。でも私が。…結婚して、仕事も辞めて…一緒にアメリカに行くのは…」

「…だけど、それで納得したのは杏子だよね…」


そんな叔父の言葉に杏子は肩を揺らした。

そうだ。叔父の言う通りだ。杏子は自分の決断を後悔した。

結婚を決めたのも、止めると決めたのも、どちらの決断も取り消しをしたい。


何も言えず、俯き黙っていると、少し息を吐いた音と共に、「こっちを見て」と言う叔父の声が耳に入って来た。


「一度決めた事を覆す理由は何?」


その声は決して冷ややかなものでは無かった。

だから杏子は顔を上げて、叔父の顔を見る事が出来た。

けれど自分を見つめるその顔は、自分の叔父でもあり、晴臣の上司の顔だった。


「っ…」

「…杏子…黙っていたら、わからない」


叔父の真摯な問いに、杏子は握ったこぶしに力を込めて、叔父の言葉の重さに耐えていた。


「言いたい事を言えずに、後悔するくらいなら、言った方が良い」


けれど続けられた叔父の言葉は、自分の思いを気遣うものだった。

だから杏子はこらえていた思いが溢れて、胸の内を開ける事が出来た。


「ごめんなさい…他に…好きな人がいます…」


苦痛に顔をゆがめながら、それでも叔父の目をそらさずに杏子は訴えた。


「やっぱり、ダメなんです…」

「…」

「…ごめんなさい…。晴臣さんの事も…会社の事も…」

「…」

「ごめんなさい…」


杏子は頭を下げた。

杏子の握るこぶしの上には、流した涙がポトリと落ちて行った。


「杏子…」

「…」

「晴臣…前島君には、君から解消の旨を伝えなさい」

「……」

「自分で伝えなさい」

「…はい」


その声は杏子の叔父の声だった。

けれど続けられた言葉は、婚約者の上司としての冷たい声だった。


「後の事は私が前島君と調整する…」

「…申し訳ありません…」


ただ謝るだけで精一杯だった。

杏子は自分のいい加減さを責めた。


けれど頭を下げる杏子の上に、温かくて柔らかい何かがふわりと乗った。

杏子が驚いて肩を揺らすと、叔父は杏子の頭をゆっくと撫でた。


「…杏子」

「…」

「杏子は部下の婚約者の前に、私の姪だ…。…辛い思いをさせて悪かったね」


思いもよらない叔父の言葉に、杏子は思わず顔を上げた。

するとそこには、ずっと昔に見た若い頃の叔父と同じ顔があった。


「叔父様…?」

「杏子には幸せになって欲しい」

「…」

「…どんな結果になっても、後悔のしない選択をしなさい」

「…はい」


叔父はたった今、選択と言った。それは結果は厭わないと言う意味だ。

そんな叔父の言葉に、再び申し訳ない気持ちがこみあげた杏子は、それを隠すべく、努めて笑顔を作った。


その笑顔は、杏子の選択が実らない事を諭されない為の嘘だ。

自分の思いは、好きな人…将司には届かなかった…。

晴臣との婚約を解消したところで、自分の思いは叶わない。

そんな残酷な結果を、これ以上、杏子は叔父に伝える事は出来なかった。


一つの決断の先が何かの決着に行きついたとしても、人は何度も決断を迫られる。

晴臣と関係が解消したからと言って、これから自分の行く先を示すものは何もない…。


思いは実らず、これからの自分がどうなるかも分からない。

そんな虚しさのような空っぽの心のまま、杏子は桜田の用意したお茶を飲んだ。

それでも、少し明いた窓から入る穏やかな風が心地よかった。




******




そこから30分ほどで、杏子は病室を後にした。

杏子が部屋を出てから暫くすると、桜田が病室へ戻ってきた。


「杏子様に連絡を頂きまして、見送りさせて頂きました」

「…そうか」

「旦那様、お茶のお代りは如何ですか?」

「…そうだな、桜田も一緒にどうだ?」

「ご一緒させてください」


先ほどまで杏子が座っていた席に桜田が座ると、病室の主は静かに語り出した。


「私…いや。私達兄弟は、祖父と同じ過ちを繰り返す所だった…」

「と言いますと?」

「実はね、杏子は他に好きな人がいたそうだ…」

「っ…」

「杏子と前島君の婚約は解消になる」


一つの結果を告げた主は、窓から入る風を気持ちよさそうに受けていた。

けれど桜田は主の発した言葉に、持っていたカップが揺れてカチャリと小さな音を立ててしまった。

そんな桜田の動揺をくみ取ると、ベッドの上の主は苦笑いを浮かべた。


「杏子がこのままま前島君と一緒になっていたら…。母と同じようになっていたらと思うと、彼女らに悪い事をしたと思う…」

「旦那様…」

「我々は、不幸になる女性を、母以外にも作るところだった…」


桜田は主の言葉に、かつて自分の使えていた先代の主人の事を思い出した。


そう。今の主の父親でもある先代の主人は、親の勧めでとある資産家の令嬢と結婚をした。

だけどその令嬢は外に好いた人がいたのか、望まない結婚だったのか。

二人の子を産むとそのまま徐々に気を病んでしまい、まるで結婚生活なんて無かったかのように、少女のような振る舞いを行うようになった。


やがて産んだ子供たちが成人を迎えると、結婚から今までの記憶を無くし、まるで永遠の少女のように、一人の無垢な少女として最期まで生きた。


「私も杏子のように、兄に言えてたら…」

「…旦那様」

「だけど…」

「…?」

「将司が生まれてくれたから…」


ベッドの上の主はゆっくりと窓の外に顔を向け、暫く流れていく雲を眺めていた。


「今頃になって、死ぬのが惜しくなってきたよ」

「…それは、ようございました」


そんな桜田の言葉に主は何も答えず、ただ流れる雲を眺め、時折ゆれる前髪の心地良さに身を委ねていた。


「でも杏子は、少し危なっかしい所があるから、心配だね」

「左様でございますね」


そう言って桜田の方へ振り向いた杏子の叔父はである主は、穏やかな笑みを携えていた。

けれど心の中では先ほどの杏子の、どこか空っぽになったような表情と、自分では無い誰かを見つめる母の顔を重ね、杏子の幸せを祈らずにはいられなかった。

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