第28話 変化(1)
6月に入り、5月の暑さが蒸し暑さに代わる頃、マスターの携帯に「産気づいた」と姉さんから連絡が入った。
「ショ、ショウ君!ぼ、僕行って来る!」
マスターは着替えもしないまま、呼んだタクシーに飛び乗って店を後にした。
「あはは、直ぐには出てこないぞ」
「マスターが行っても邪魔そうだなぁ」
マスターを見送った俺に、常連さん達はのんびりと笑いながら話かけた。
「え?直ぐに産まれない感じですか?」
「初産でしょ?最初は陣痛が長いと思うわ。でもそれも人によって違うけどね」
教えてくれたのは、常連のサユさんだ。
「でもそっかぁ…。一時はマスターも不安定な感じがあったけれど、良い人に出会えたのね。ふふ、まさかマスターが父親になるなんて。
奥様はこれから二人分の子供の面倒を見ないとダメなのね」
サユさんの感想に、俺はプッとふき出してしまった。
そんな俺にサユさんは笑い返す。言われてみれば、家でのマスターは姉さんに頭が上がらない感じがする。
「ショウ君も少し雰囲気が変わったわね」
「そうですか?自分では分からないですけど…」
サユさんの会話に答えながら、以前の自分の事を思い出す。
「少し穏やか顔になった気がするわ。前はもっと気を張っているような感じだったけど」
「…店に慣れた?…んでしょうか?」
「ふふ、そういう事にしておきましょうか」
さすがは年を重ねただけはある。
確かに以前の俺は少し人間不信のような部分があった。
それは自分の父親という人が急に現れて、また連れて行こうとするんじゃないか…そんな恐怖が少なからずあったからだ。
けれどそんな憂いを今は抱いていない。
俺が俺のままで居ても良いと…、父と会えた事や、自分の記憶を思い出した事で気持ちが落ち着いたからだ。
それでも気になる事はある。
マスターの言った、アンさんのとの間にある誤解の話だ。
そもそもそんな誤解が有るのか、無いのか。
結局それもアンさんに会えない以上、確認する術は無い。
そんな事を考えていたからだろうか。
常連さん達はアンさんの事を話し始めた。
「最近、アンちゃん見ないね」
「あ~婚約者と一緒に来たきりだなぁ」
「そっか、結婚するなら忙しいし、家庭に入ればここには来れないか」
「だな~。多分もう来れないだろうなぁ」
そうか。そう言えば婚約者の人と一緒に来たんだっけ。
ならアンさんは結婚するのか。
大川の家は、それなりに大きな会社を経営している家だったと思うから、あの相手の人も、身元のしっかりとした人なんだろうな。
最初は不信な男だと思っていたけど、悪い事をしたかも。
そう言えば、婚約者の人は俺に何て言ってたっけ?
「サユちゃんの旦那って、随分と前に亡くなったんだよな?」
「えぇそうね、良い人だったわよ。一緒にこの店にも来たわ、懐かしいわね」
「へぇ、それは知らなかったなぁ」
俺の思考はそんな常連さん達の会話で切れてしまった。
「ここの先代がね、店を譲って田舎に帰る際に、うちの人にお線香をあげたいって…そこからまた店に来るようになったわ」
「サユちゃんも色々あんだなぁ」
「ふふ、結婚自体を反対されたようなものだったから、あの人、古い友人は先代のマスターくらいだったのよ」
「サユちゃん苦労してんだなぁ」
「私より上の時代の人はもっと苦労してるわよ」
「そうだなぁ…」
古い友人か…。
もしあのままあの家に居たら、従姉とは言え、アンさんとは古い友人になれたのだろうか。
「今は親の都合で結婚するなんて、珍しいわよね」
「そもそも結婚しない人も多いらしいからなぁ」
「マスターは2回もしてるから多い方だ」
「あはは、そうかも知れないなぁ」
そっか。マスター再婚だっけ?
前の人との間にも子供は居なかったみたいだし、やっぱり色々とあったんだろうな。
どうやら今夜は、マスターやお店の話をメインにしつつ、お客さんの昔話に花が咲く…そんな夜だった。
やがて閉店の時刻になったので、姉さんとマスターから何か連絡が入って無いかとスマートフォンを開けて確認をした。
すると松山からメッセージが入っているのが見えた。
アプリを開けて内容を確認する。
『どこかで時間ないかな?』
時間か。何か話でもあるのだろうか。
姉さんの事が気になるけど、直ぐには産まれないって、どのくらい産まれないんだろう?
そんな事を考えていたら、メッセージ画面が通話画面に切り替わった。
どうやらメッセージアプリを開いて既読の印がついたので、通話に切り替えたのだろう。松山はやっぱり強引な所がある。
俺は通話ボタンを押した。
「あ~、なに?」
「あ、ごめん、ごめん、仕事は終わった?」
「今から片付け」
「う~ん、今から会える?」
「えぇ、もう遅いぞ?明日の仕事大丈夫か?」
「あ~、うん、多分」
多分って、結構松山もいい加減な事を言うんだな。
でも今日は、姉さんの事が気になるしなぁ。
「急ぎ?」
「…ちょっと確認したくて」
「…確認?」
「うん」
確認なら、直ぐに終わるか?それに本人が大丈夫と言うなら、少しくらい時間を取ってやっても良いかと思い直す。
「じゃ、どっかの店?駅前?それともこっち?」
待ち合わせ場所を聞けば、今から家に来いと言う。
はぁ、そう言えばこういう奴だった。
でもまぁ、夜も遅いしそれが無難か。
「分かった。出る時に連絡する」
「ごめん~」
とりあえず松山の家に向かう事で了承する事にした。
それでも念のため、メッセージを送る。
『今日は泊まらないぞ』と。
それに姉さんから連絡があるかも知れない。
俺はスマートフォンのマナーモードを解除した。
結局店の片付けや、松山の家への移動で時間がかかり、松山の家に着いた時には25時を回っていた。
夜分にインターフォンを鳴らすのをためらい、松山の家の前でスマートフォンの通話ボタンを押した。
すると程なくドアが開いて、松山が出て来た。
「いきなりは不用心すぎる…」
「ちゃんとドアスコープから見ました…」
少しだけ不機嫌そうな返事をして、松山は俺を部屋に入れた。
松山は以前と同じコーヒーを入れてくれた。
持って来る時に氷がカラカラと音を立てていた。
そうか前はホットコーヒーだったっけ。あれから結構な日が開いたんだな…なんてぼんやりと考えていた。
コーヒーを受け取って礼を言うと、松山は俺の斜め前に座った。
頂きますと言って、口にしたコーヒーが乾いた喉を通る。
松山はコーヒーを飲まなかったようだ。
「それで、話って?確認って何を?」
俺がコーヒーをテーブルに置いて、話を切り出すと、松山は急に俺に抱き着いて来た。
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