第38話 ドミノ(2)

前島が自宅の玄関のカギを開けると、静かな部屋を照らすように、玄関ホールの灯りが着いた。


「はぁ…」


ため息も吐きたくなる。

けれどそんなに落ち込んでもいない、自分の様子に呆れもした。


カバンをソファーに放り投げると、そのままキッチンに向かい、冷蔵庫から冷えたペットボトルの水を取り出しゴクゴクと流し込んだ。


ふぅ…と息を吐き出すと、、ポケットの中にあるスマートフォンが揺れ出した。

先ほどから引っ切り無しに震えるスマートフォンに呆れながらポケットから取り出す。前島の思った通り、そこには母親の名前が表示されていた。


前島はため息を吐いて、通話画面に切り替えた。


「はい…晴臣です」

「婚約の解消ってどういう事?いったい何があったのよ⁉」


開口一番、本題を切り出す母の怒りの剣幕に、前島はスマートフォンを耳から遠のける。

ヒステリックな母の文句に面倒だと思う前島。

手にしたペットボトルの水を一口飲んで、気分を落ち着かせた。


「どうもこうも無いですよ。ご縁が無かったんです」

「ご縁がって!あなた、それで良いの?あんないいお嬢さん、もっとしっかり繋ぎ留めないとダメだって、あれだけ言ったじゃないの!」


あと何回耳にすればいいのだろう。

前島はスマートフォンを耳から遠ざける。


「ちょっと?聞いてるの?今からでも…」

「ダメですよ。お互いに納得した話です」

「お互いにって、結婚ですよ?家同士の…」

「また家に寄りますから、その時にでも」

「って、あなた」

「もう遅いですし、失礼します」


強引に話を終えた前島は通話終了をタップし、暗くなった画面から目を離す。


少し冷たい言葉だったかもしれない…。

そんな事を考えながら水を飲もうとした時、再びスマートフォンは震えだした。

少しうんざりしながら画面を確認すると、そこに表示された名前は、母親では無く同僚の「奥」と言う文字だった。

前島はその文字に安堵を覚えると、画面を通話に切り替えた。


「はい、前島です」

「あ、すみません、奥です。夜分にすみません」


電話の相手の奥は、同期入社の同僚で、自分の上司である大川の秘書だった女性だ。けれど上司の大川が体調を崩し、会社を退職したのを機に、前島のサポート業に就いた。

共に上司の業務を引き継いだ、戦友とも言える間柄の人間だ。


「どうしました?」

「あ~、前島君のお母様が…」

「っ!」

「昔、お渡しした名刺から…と。それよりお母様と連絡は取れました?」

「…はい、先ほど。ご迷惑をおかけしてすみません」

「なら良かったです」


自分の耳元で柔らかく笑う、気心の知れた友人の声をに、前島は少しだけ気が緩んでしまった。だから先日起きたばかりの出来事を彼女に伝える事にした。


「あのさ、いずれ耳にすると思うけど、僕の婚約無くなったんだよね」

「ええっ?」


前島の突然の報告に、奥は相当驚いたようだ。

前島は奥の戸惑いを気にするでもなく、通話をスピーカーへ切り替える。

そしてスマートフォンとペットボトルをリビングのテーブルの上に置くと、自身はソファーへどかりと深く座り、続けてエアコンのスイッチを入れて冷房を全開にした。


「ふぅ…」


全身を脱力すると、ぬるいエアコンの風が髪を撫でた。

そのままソファーの背もたれに頭を預け、暗い部屋の天井を仰ぐ。

ほの暗いリビングに一人。

ダイニングの照明だけでは届かず心もとないが、それでもリビングの照明をつける気になれなかった。


前島は重い体を起こしてソファーから立ちあがると、カーテンを大きく開けた。

カーテンの隙間から、まるで自分を照らすような、柔らかい月の明かりが入って来る。


「あ~満月か…」

「え?」


突然の会話を再会させた前島の言葉に奥は驚く。

前島は気にせず会話を続けた。


「いや、さっきも思ったけど、今夜は明るいなぁと…」

「え?外ですか?」

「いや、家だけど?」


さっきから自分の相づちしか言わない奥。

彼女ならこんなに、どんな言葉をかけるのか?

前島はそんな興味を抱きつつ、それでも「こんな話」に、かける言葉も無いかと悟り、少し苦笑いを浮かべると言葉を続けた。


「こういう時、秘書って何か気分を変える言葉が出るものだと思ってた」


思いもよらない方向からやって来た前島の言葉に、奥は冗談を交えて切り返すしか方法が無と思った。


「…えっと?残業手当は出ますかね?」

「あ~、出ないね」

「なら、私も出ないですね。でも、同期の…友人としてなら、何か…」


前島はテーブルの上にあったペットボトルの水を手に取り、水を口に含むと、ゆっくりと飲みこんだ。

そして奥に話の続きをするよう、柔らかな相づちで促した。

そんな前島催促に、奥は「う~ん」と小さな声を出しながら考えていた。


「えっと、前島君は落ち込んでるのかな?」


ひねり出した奥の言葉に、前島は少し笑ってしまった。


「いやぁ。それが、意外とそうでも無い事に驚いてる」

「って事は、前島君から?」

「いや、彼女の方からだけど?」


そう。婚約の解消自体に自分は落ち込んでいない。

そんな晴臣の耳に奥の小さな戸惑いの声が届いた。

前島は奥の戸惑いをまるで聞き流すかのように、ペットボトルの水をごくごくと飲んだ。


独りきりの部屋。エアコンの起動音が響くような、そんな静かな夜だった。

静けさを感じながらソファーの上でゆっくりと目を閉じる。


「…向こうで…」

「うん?」

「アメリカで恋人かパートナーを見つけたら良いんじゃないかな?」


奥の言葉は慰めだろうか、嫌みだろうか。

そんな事を考えていたからだろう。


「…君もね」


促すような前島の言葉は、奥には嫌みの言葉となってしまったらしい。

スマートフォンの向こうで、大きく息を吐く音がする。


「…はぁ。結婚は、もうこりごりです」

「あはは、そっか」


奥のため息とうんざりする口調に前島は笑って返した。


一方の奥は、そんな前島の笑い声に、先ほどから自分は茶化されているのか、煽られているのか。それとも単なる自暴自棄なのか。

そんな前島のらしくない…いや、いつも以上に前島らしい気の抜けた雰囲気に、「ならば」と反撃に転じる事にした。


「で?結局、何が理由で振られたのよ?」

「ええ?」


そう言えば奥は仕事でも一番痛い点を追求する人だった。

前島は痛いところを突かれたのに、何故だか妙に気分が良かった。


「どうせ、あなたの女癖の悪さがバレたんでしょ?」

「酷いなぁ、僕はには一途になるって決めてるんだ」

「はぁ、どうだか」

「女性の方が僕の事を、ほっとかないんだよ」

「相変わらず私の一番嫌いなタイプだわ。お相手も婚約破棄で正解よ!」

「あはは、君は同僚の時と友人の時とじゃ、別人すぎる」


クックックと喉を鳴らしながら笑う前島に、奥は胸をなでおろした。

自分の苦言を軽くいなす、友人としてのやり取りが戻ったのだ。


けれど前島は、そんないつも通りのやり取りどこかで別の事を考えていた。

まだ自分の胸に残る、わだかまりのような思い。

それは胸の奥にしまい込んだ気持ち…。

それを今、ここで吐き出しても良いのだろうか。


婚約の解消か…。

前島はテーブルの上にあるスマートフォンの「奥」と言う名前を眺めながら、自分の気持ちをぼんやりと考えていた。


…そう。

大川杏子が婚約の解消を切り出した。

その理由が自分には堪えた。

それは自身の沈めた思いを蒸し返すかのような、そんな言葉だったからだ。


「貴方が落ち込んでないにしても、なんにしても、言いたい事があるのなら、聞いてあげても良いわ。元夫の親友で、私の友人でもある前島君ならね」

「う~ん、凄くトゲのある言い方」

「あなたが私の事を茶化すからよ」


奥の声が少し遠くから聞こえたかと思うと、通話先でごそごそと動く音が聞こえ、パタンと何かが閉じる音がした。

暫くする「カシュっ」と軽い音と共に、ゴクゴクと飲み物を流し込む音が聞こえた。


「だ~っ、旨い」

「あ、お前、呑んだな」

「吞まないと、やってられないじゃない」

「俺は水で我慢してるのに」

「あはは、じゃ、お詫びにの話をきいてあげましょうか?」


奥は缶ビールで機嫌が良くなったのか、テンションが少し上がったようだ。

一方の前島はソファーに体を深く沈め、残りの水を一気に煽った。

そしてゆっくりと息を吐くと、先日の出来事…婚約者との別れ話を思い出し、ポツポツと話し始めた。


「杏子さ…、いや、元婚約者の大川さんだけど、ずっと好きな人が居るそうだ」


そんな前島の告白に、スマートフォンの向こうで、ひゅっと奥の息を飲む音がした。それは奥にとっても、辛い言葉だったのかも知れない。


「婚約者にそう言われちゃったら、解消も仕方がない」

「…そっか」

「大川さんとはね、信頼関係…その上でずっと一緒に居れる自信はあったんだ。君と違って、素直で柔らかな雰囲気で…」


大川の事を言いながら、前島は奥の事を思い浮かべていた。


「えっと、喧嘩売ってる?」

「あはは、売ってない、売ってない」

「ならいいけど」

「でも、どこか、君に似ている部分もあったかなぁ…」

「…なら、逃した魚は大きかったわね」


逃した魚は大きい…そんなチンケな言葉が、今日は何故だか深く沈んで行く。

いや、何故では無い。理由はわかっている。


「?どうしたの?」

「いや…落ち込んではいないんだけど、彼女…大川さんの言葉には、正直参ってるなぁって」

「…えっと、大川さんはあなたと別れて、好きな人と一緒になるって話?」

「いや、それは違うらしい」

「え?」

「すでに振られたようだ」

「どういう事?」

「彼女の言葉を借りれば、『私の事を知らない人だから』だそうだ」

「知らない人?」

「そう言ってたね、意味は分からないけれど」


前島の言葉に奥は合点が行かなかった。

けれどここで何か話をまとめたとしても、何も変わらないだろう。

奥は「そっか」と呟くと、再び缶ビールを口にした。


「でもそっか。結婚前に言ってくれて良かったのかも。とは言えそのまま黙って結婚に至ったとしても、相手が貴方ならそれなりに上手く行ったとは思うけどね」

「あはは、それ本気?」

「自覚してるでしょうけど、優しいし、見た目が良いからね。だから女がじゃんじゃん湧いて来るのね」

「もっと褒めてよ」

「もう無いわ」

「酷いなぁ」

「…正直な所。私が離婚した時、優しい言葉をくれたのは、貴方だけだったしね」


自虐のような奥の言葉に前島は苦いものがこみ上げてくる。


「奥やめろ…聞きたくない…」


突然小さくなった前島の声に、奥は自分の言った言葉の不味さに気が付いた。

一方の前島も自分の言葉が奥を傷つけた可能性に気が付き、気まずさから何と言えばいいのか分からなくなってしまった。

暫く訪れる沈黙。それを破ったのは奥だった。


「ごめんね」

「奥は悪くないって…」

「…うん、ごめんって」

「自分の事悪く言うなって…俺、いつも言ってるだろ?…あいつが、あいつが悪いって…」


前島は詫びる言葉が出なかった。

自分も奥も何も悪くない。ただそう言いたかっただけなのだ。


絞るような前島の声に、奥は徐々に冷静さを取り戻した。

そして昔の苦い離婚の記憶と、それを支えてくれた友情を思い出した。

苦い思い出と前島の優しさ。

奥は缶ビールをクィっと流し込むように飲んだ。


「ごめんって。私、ちょっと酔っ払ったかもなぁ…」

「…お前、弱くなったんじゃないか?」

「あぁそうか。そうね、無駄に年は取りたくない無いわねぇ」

「そうだなぁ…。お互いに、このまま一人で過ごす事も考えないな」


まるで話を逸らすような前島の言葉に奥は安堵した。

そして自分が一人で過ごす未来を思い浮かべると、妙な可笑しさを感じて「フフフ」と声に出して笑ってしまった。

一人で生きていても、こんな友情があれば寂しくないのかも…と。


「でも、子供は産んでみたかったかも」

「奥…」

「自虐じゃ無いわよ。そういう道が私には無かったなぁって話」


まさか自分とは違う別の女性に、夫の子供が出来る日が来るとは思わなかった。

まるであの頃の自分を慰めるように、奥はお腹を撫でる。


「でも大川さんだっけ?自分の気持ちに正直に生きてる。その姿勢は潔くて良いじゃない」

「正直?」

「あなたが参ってるのも、そういう若さのような、純粋さにヤラれたんじゃないの?例えそれが誰かを傷つける事になっても」

「…そうだな」

「結局どんな選択でも、みんな無傷って事は無いのよ」


そんな奥の言葉に、前島は自分の気持ちを奥に告白するべきかどうか悩む。

だけどそれはきっと今では無い。


「はぁ。あなたとアメリカでやって行くのは不安だわ」

「えぇ?」

「もっと強く行きなさいよね。変な所で気を使って最後まで押し切らない所があるのよ、あなた」

「押し切るねぇ」

「仕事では割と出来るんだから、常にそんな姿勢でいかないと、これからもいい女を逃し続けるわよ」

「…だったら」

「ん?」

「奥が…菜々美がそう言うなら、そうさせてもらうか」


前島はあえて奥の事を菜々美と呼んだ。

それは親友と同僚の友人に隠したままの自分の思いの片鱗だった。


「えっと?よくわからないけど、なんで呼び捨て?まぁいいわ、その勢いよ!」

「あはは、そっか。もう遅いし切るか。長い事すまんな」

「うん、私は大丈夫だけど、切り替えが出来たのなら良かったわ」

「また明日からもよろしく」

「ふふ、わかりました。これからもよろしくね」


薄暗い部屋の中、通話の切れたスマートフォンの灯りが消える。

それはまるで、さっきまでの奥とのやり取りが、無かったかのような錯覚を思わせるものだった。


前島は少しだけ軽くなった体を起こしソファーから立ち上がった。

再び窓辺に立って夜空を見上げる。

カーテンの隙間から見えていた満月は、さっきよりも随分と遠くへ移動してしまったらしい。


それでもこの夜空のどこかで輝く月の明かりの事を思えば、前島は少しだけ前向きに奥との事を考える事が出来た。

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