第56話 アンさんの好きな人(前編)
晴臣さんが自分の過去を打ち明けたあの日、あれから晴臣さんがサユさんを送ると言って二人は店を出た。
「お気を付けて」と見送った俺に、晴臣さんは改まって俺に向き直り、こう告げた。
「杏子さんの事、頼むわな」
少し眉が下がったその顔は、苦笑いのように見えた。
けれど妙に晴れやかな印象もあり、晴臣さんのチグハグな気持ちがそのまま出ているようだった。
晴臣さんの言葉を聞いてから、俺は自分の気持ちをずっと考えていた。
昔の事を忘れていた時期だったとは言え、俺の言葉でアンさんに悲しい顔をさせてしまった事は変わらない。
そしてアンさんと晴臣さんの婚約の解消。
真面目なアンさんの事だ。
結婚も解消も、色々と考えての上で至った覚悟だったと思う。
そんな状態のアンさんへ、自分の思いを告げる事は自分勝手過ぎないか?
そんな事を考えながら俺は今日も父さんの家に向かった。
そしていつも通り、勝手口へ抜けようと裏口へ向かう途中、駐車場に見覚えの無い車があるのが見えた。
「来客…かな?」
師走の慌ただしい時期だ。
年が開ける前に挨拶に来る人も居るだろう。
止めてある車が高級車だった事もあって、そんな事をぼんやりと考えていた。
預かっている鍵で勝手口のドアを開けて台所へ入ると、ストーブの火は消えていたが、部屋がまだ温かい事に気が付いた。
男性のくぐもった声と、女性の会話が遠くから聞こえる。
今日は土曜日だ。
アンさんも居るのかな?
来客を交えて父さんとアンさんが話をしているのだろうか。
俺はいつもと様子が違う事に疑問も抱かず、買ってきた食材を冷蔵庫へ入れた。
「ドンッ、ガシャン!」
「えっ?」
遠くの部屋から何かがぶつかるような鈍い音と、ガラス食器の音に驚いた俺は、野菜を入れるのを止めて、立ち上がり様子うかがう。
「勝手な事を言うな!」
男性の激高した怒鳴り声だ。
俺は慌てて台所から飛び出す。
「っ!」
この声は父さんじゃない。
ドタドタと廊下を仏間へ向かい走っていると、再び怒鳴り声が聞こえた。
「謝って済む話じゃ無いだろう!」
「あなた…それ以上は…」
憤る男性と、それを止めようとする年配の女性の声。
「啓司が用意した縁談を、お前は…」
「…ごめんなさい」
「兄さん、それ以上は…」
「っ、お前まで!!」
会話の内容と声で、アンさんと両親、そして父さんが、アンさんの婚約解消の件で揉めているのが分かってしまった。
怒鳴り声は、きっとあの人の声だ。
その事実に気が付いた俺は足が先へ動かなくなった。
怖い…。
足を前に踏み出せなくなったのは、俺の中に居る小さな俺が怖いと言って止めたからだ。
それに、いくら揉めているとは言え、この話に俺が入って良いとも思えない。
俺は、父さんの息子だけど…。
「…家族じゃない」
そう。
血縁関係とは言え、俺はこの家では他人なのだ。
その事実に気が付けば、廊下の先の部屋にいるあの人の声が、あのセリフが脳内で再生された。
『何故ここに居るんだ』
急に震えだす足。
そして逃げたい気持ち。
そんな俺の耳に入ったのは、あの人の怒鳴り声だった。
「希美、お前まで杏子や啓司の肩を持つのか!」
「そんな事はありません」
「っ!お前もそうなのか、お前も啓司が良いというのか!」
「やめて下さい!そんな事はありませんと何度も言っているじゃありませんか!」
「っく、こんな病気の奴のどこが良いんだ!」
「あなた!」
「こいつは昔から要領のいい奴だったしな、はは、だけど、ま、今はこんなだ。
どうせ先もそんなに…」
揉めている話が拗れて、父さんの話になった。
そして、あらぬ方へ向いたのを止めたのはアンさんの声だった。
「お父さん、いい加減にしてっ!」
「っ!」
悲痛なアンさんの声。
そして僅かな沈黙ののち、再びアンさんの声が続く。
「前島さんとの結婚が無くなったのは、二人の問題です」
「っつ、だから、それが勝手だと」
「申し訳ございません」
そう言った杏子さんの謝罪は強い決意の声に聞こえた。
やがて襖の開く音がして「もういいっ!」と言うあの人の声が廊下に響いた。
立ちすくむ俺の前に、仏間から抜けた灯りが廊下を照らすと、ドカドカとあの人が近づいて来るのが見えた。
その背後に続く女性は、アンさんのお母さんで、俺の叔母にあたる人だ。
「あなた、待って下さい!」
追いかけながら声をかける叔母さんとあの人が、暗い廊下で立ちすくむ俺に気が付いて歩みを止めた。
「っ、お前…」
「ま、将司…くん?」
ハッと息を飲んだ二人が固まり、俺をまじまじと見つめる。
ぎりりと歯を食いしばる俺の目の前に、あの人、俺の叔父が立ち止まる。
その鋭い目つきは、記憶のまま。
けれどやはり年を重ねたせいか、記憶よりも小さく感じる。
「何故、お前がここに…」
「っつ」
その言葉に俺は目線を背ける。
その途中、叔父の背中の向こうにアンさんの今にも泣きだしそうな顔が見えた。
その悲しそうな目に俺はかつての自分を見た気がした。
そして咄嗟に浮かんだのは否定の言葉だった。
やっぱりダメだ…。
目の前にいる叔父は、俺がここに居る事が困惑であり、嫌悪だったのだろう。
徐々にその顔は怒りに変わって行くのが見て取れた。
怖い…。
その怒りの矛先が俺に向きそうになった時、アンさんは自分の父親に腕を伸ばした。
「待って」
その動きはまるでスローモーションのようにゆっくりに見えた。
悲しそうな顔が俺を見ると、驚いた顔になり、やがて、くしゃりと潰れ、痛みを浮かべた顔へとなった。
あぁ。
やっぱりアンさんは、杏ちゃんだった。
俺の痛みに寄り添うその顔は、幼い日に見た杏ちゃんの顔。
だけど、俺が笑えば、杏ちゃんも笑ってくれた。
だから俺は俺が嬉しかったら、杏ちゃんも嬉しいのだろうと思った。
小さな俺の小さな自惚れ。
だから大好きな杏ちゃんがお嫁さんになれば、杏ちゃんも嬉しいだなんて、素直にそう思ったんだろう。
「ごめんなさい」
それは素直に出た俺の言葉だった。
「ごめんなさい、勝手にお邪魔して」
再び声にした言葉は、俺の中に素直に入って行った。
そんな俺の言動にアンさんも、アンさん両親も驚いていた。
そしてアンさんの向こうに、父さんの姿が見えた。
その眼差しに、俺は背中を押された気がした。
「でも、俺の父さんの家なんで」
押されるままに出た言葉。
そう言った俺は多分笑えていたと思う。
その言動に悔しそうな反応をしたのは、あの人だ。
「っつ!」
力の抜けた俺を無視するかのように、あの人は何も言わず俺の横を通り抜けて行った。
「あなた…」
あの人の後を追いかける叔母が、少し頭を下げて俺の横を抜ける。
そして残された俺を見つめるアンさんと父さん。
少し安堵の様子を見せた二人に、俺はまた少し勇気を貰えたらしい。
「家族なんでしょ?もっと冷静に話し合って下さい」
廊下を抜けるあの人へ振り返り、俺は声をかける事が出来た。
そんな俺の言葉に叔父は肩を揺らし、立ち止まった。
これは余計なお世話だと思う。
けれど、やっぱりこの人達は家族なんだから、その関係は大切にして欲しい。
「もっと大切にして下さい」
肩越しに抜ける俺の言葉は、叔父に届くか分からない。
だけど、それでも俺は言いたかった。
そんな俺の言葉を無視するように、叔父はこの家から出て行った。
やがて静まる廊下。
遠くに聞こえる玄関の引き戸の音。
その音で俺はアンさんへ目向けると、行先の無くしたアンさん腕は、そのまま自分の反対側の腕を掴んで、小さく震えているのが見えた。
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