第57話 アンさんの好きな人(後編)
「アンさん」と言いかけて俺は言いなおす。
「杏子さん、今までごめんなさい」
俺の謝罪の言葉にアンさんは困った顔を見せた。
「何を…ですか?」
距離感のある返事は、父さんが居るからだろうか。
本当は二人の時に話をするべきかもしれないけれど、俺は直ぐにでも言いたかった。
「忘れていてごめんなさい」
「それは…」
「仕方がない」と言うアンさんの言葉を遮り、俺は言葉を続けた。
「それに、心配をかけて、ごめんなさい」
「…」
アンさんは、俺の事をずっと心配していたんだ。
そして…。
「自分勝手な約束でごめんなさい」
「っつ」
俺は頭を下げた。
アンさんは何も答えない。
これでアンさんに悲しい顔をさせた事の償いになるとは思わない。
だけど俺は謝らずにはいられなかった。
頭を上げて、俺はアンさんの顔を見つめる。
そして父さんへ目を向ける。
アンさんは俺の従姉で、父さんは父さんだ。
共に暮らした時間が短くとも、それがただの血液だけの繋がりだったとしても、覚えていない記憶の中に、この3人で居た、家族のように過ごした時間を俺は見つけてしまった。
そして俺はそれをまた望んでいるのだ。
「俺が出会った貴女は、お客さんで、アンさんと呼ばれている人でした」
用意していたセリフでも何でもない。
俺は今の気持ちをただ素直に続けた。
「その人は、少し幼い印象で。でも笑顔が素敵で。聞こえて来る話から、頑張り屋で素直な人なんだろうなぁって思ってました」
どこか穏やで、晴れやかな気持ちのまま、俺は言葉を続けた。
「多分、それは俺が小さな頃に抱いていた、杏ちゃん、そのものだったかも知れません」
記憶の中の小さな俺に笑いかける杏ちゃん。
俺の悲しい顔を見て、痛ましい顔をする杏ちゃん。
だけど、さっき、あの人に声をかけた事実が、俺の中にいる傷ついた小さな俺の背中を押した。
小さな俺はもう大丈夫だと笑っている。
そして今の俺も、昔話は苦いんだって笑えていると思う。
「ずっと、忘れたままで、ほんと、情けない話だよね」
自分の辛さを心に閉じ込める時に、閉まった幼い日々の記憶。
だけど俺はその時にあった、穏やかな時間を見つけ、もう一度取り戻したい思った。
だけど、それは昔を再現する事じゃない。
そう。
かつて過ごした穏やかな時間のずっとその先だ。
「そんな俺だけど、お店で美味しそうにお酒を飲むアンさんが好きでした」
俺の告白にハッと息を飲んで、口を覆うアンさん。
だよね、だってこんな時に告白って、誰だって驚くよね。
「だから、昔の俺との約束とか、そう言うのじゃなくて。俺の知ってるアンさんである杏子さんに、俺の知ってる穏やかな時間を知って欲しいなぁって…」
アンさんは婚約者がいる。
今更、伝えた所で仕方が無い。
そんな憂いが無くなったから、言葉が出せたのは事実だ。
だけど、出した言葉に嘘は無いんだ。
「俺はもう大丈夫だから。だから笑って?」
今になって思えば、この時の俺も晴臣さんと同じで自惚れていたと分かる。
自分が好きになった女性に笑って欲しいだとか、その笑顔を護ってやりたいだとか、結局、そんなものは男の自己満足のようなものだ。
「今更だけど、俺、杏子さんに幸せになってもらいたいんだ」
それでも、そんな自分勝手な思いは、純粋であればあるこそ、相手に通じるのも事実なんだと思う。
サユさんが思いやりの話をしたのは、この事だったのかも知れない。
「…っつ」
アンさんは両手で口元を押さえると、そのままボロボロと涙をこぼした。
アンさんが泣いている。
だけど、この涙はきっと嫌な涙じゃ無い。
俺はアンさんの傍に行きたくて、彼女へと近づき、その手を片方取って自惚れた気持ちのまま彼女に尋ねた。
「俺…じゃダメですか?」
そんなずるい言葉にアンさんは口元を押さえていた手を広げ俺に抱き着いた。
予想外のような想定内のようなアンさんの行動に、一瞬戸惑いを覚えるも、俺の胸の中でしがみつくアンさんが可愛くて、彼女を上から包み込む。
「…キョウコ…さん」
アンさんと言いかけて、名前で呼んだ。
「ダメじゃ無い…」
囁くようなアンさんの声が耳に広がると、俺は彼女が潰れないように優しく抱きしめた。
「そっか…」
アンさんの結婚の話が無くなっても、どこかでダメだろうな、なんて考えていた。
そもそも俺にそんな事を言う資格なんて無いな、なんて思ってた。
だから、ただの親戚の一人として、傍から見守るダケでも良いじゃ無いか?って考えてもいた。
血の繋がった遠い家族のような位置で、アンさんの幸せを見守るのも悪く無いよな…って。
俺じゃダメですか?だなんて、ズルい言葉だな。
恋人としてなのか、親戚としてなのか。
そんなズルい俺でもアンさんはそばに来てくれた。
俺はアンさんを抱きしめた。
曖昧な言葉で思いを告げた罪悪感と一緒に、アンさんの温かさを噛み締める。
情けない俺の中にその温かさが染みわたると、俺はアンさんの顔が見たくなって、少しだけ引き離し彼女の顔を上げた。
そして俺を見つめるアンさんの目に吸い込まれるように、俺も顔を近づけた。
「コホン…」
「っつ!」
「っ!」
そうだ。
父さんが居たんだった。
いたたまれない空気の中、俺が父さんへ顔を向けると、そこに居たのは困った顔を浮かべながらも、安堵の様子を見せる父さんだった。
「それは、告白か?プロポーズか?」
「っつ!」
まるで曖昧な言葉で事を進めようとする俺を諌めるような言葉だ。
その冷静な指摘に俺の顔が熱を持つ。
「え…っと、あの~」
いたたまれない気持ちを誤魔化しながら、アンさんへ助けて欲しいと目を向けると、俺の胸の中で俯いたままのアンさんの耳が赤くなっているのが見えた。
「ま、どっちでも良いか。俺は部屋に戻るから、落ち着いたらお茶を持って来てくれ」
「はい…」
父さんは苦笑いを浮かべ、そう告げると、自分の部屋へ戻って行った。
再び静かになった廊下。
アンさんは、相変わらず俺の胸の中で俯いたままだ。
俺はアンさんの頬に手を添えて、彼女の顔を上に向ける。
「…いい?」
相変わらず続くずるい質問にアンさんの目が一瞬泳ぐも、静かに目を閉じたので俺は顔を近づけた。
………。
初めてのキスは、多分だけど涙の味だった。
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