第8話 お客さんと店員さん

金曜日の夜にアンさんは一人でお店にやって来た。


「こんばんは。マスター先週はご迷惑をおかけしました」


アンさんは店に入って直ぐにマスターへ駆け寄ると、深々と頭をさげて謝罪の意を告げた。


「それに店員さんもご迷惑をかけてしまって…」


今度は俺の方にも顔を向け、頭を下げて謝った。


「いえ、お気になさらず。ショウ君にも聞きましたから大丈夫です。ね、ショウ君?」

「はい、本当に大丈夫です。それに今日、お顔を見せて頂けたのでこれで…」


俺はアンさんが来店してくれたので、約束を守ってくれた事を強調した。


「じゃ、この話はこの位で。今日はどうされますか?」

「はい、マスター色々とありがとうございます。じゃぁ今日は…」


アンさんも素直にマスターの話を聞いくれて、これからお酒を楽しむようだ。

うん、これで良い。こうして気軽に来店して欲しい。俺は素直にそう思っていた。


今夜のアンさんも、いつもの通りのパリッとしたスーツ姿だ。

顔だけを見れば少し幼い印象もあるけど、なんだろう?全体の雰囲気はキリっとしていて、学生の時なら学級の委員長とか、生徒会長のようだ。


時々テレビで、外国の要人の方で若い女性の方が、日本へ訪れるニュースを見る事があるが、あのような自信と言うか、力強さを感じる雰囲気に近いかも。

それにアンさんは芯が強そうなイメージも持っているけれど、それだけじゃなくて、女性らしい柔らかな雰囲気も持っている。

多分だけど、アンさんは同年代の人よりも、年上の人からの方が印象が良いと思う。

つまりアンさんは、年下よりも、年上の男性にモテるタイプなんだと思う。


なのになぁ。

そんなアンさんでも、『じろう』とやらに振られちゃうんだよなぁ。って、勝手に『じろう』とやらを年上の男性に設定しているのだが…。

つまり若い奴も年の重ねた奴も、世の中の男は見る目が無い。

なんてな。

俺は失礼ながらも、アンさんとマスターのやり取りを見ながら、そんな事を考えていた。


けれどそれもただの推測と言うより、俺の邪推のようなもの。

俺はアンさんの事を、本当に

そもそも俺がこの店に来た時には、アンさんは既に常連客の一人だった。だから知る由もない。


俺の知っているアンさんは、一人で来店される事もあるけれど、基本的に年上のお客さんと一緒に来るお客さんだ。年配の男性は、恐らく上司とか、取引先の人間だろうか。

それでも女性と来店される事の方が多いけれど、こちらも一緒に来られる方はアンさんより年上の方が多い。

もちろんその年上の女性客も、このお店の常連さんだ。


この店で見る限りになるけれど、アンさんの話方の雰囲気や距離感を見れば、アンさんは目上の方と一緒に来る事が多いようで、落ち着いた交友関係を持っている人なんだろう。そんなアンさんだから、浮ついた印象は殆ど見られない。


だから先日酔ったアンさんの事をみんな持て余したのだ。

きっとマスターを始め他の常連さんも、彼女をどう扱って良いのか分からなかったと思う。そして俺も、もれなくアンさんを持て余した側の一人で、酔ったアンさんの事は、そっとしておくのが一番だと思っていた。

結局、酔いつぶれて一晩一緒に過ごす事になったのだけれど、多分、あんな失態は二度と起こさないだろう。


そんな失態を打った先日と変わって、今夜のアンさんは、普段の通り、静かにお酒を傾けていた。

アンさんの好みは、カンパリとウイスキー。

今は、ウイスキーを楽しんでいるようだ。




*****




やがて夜も更け始める頃、俺は少しずつ店内を整理し始めた。

そしてアンさんの近くの席を片付け始めると、彼女の方から俺に声をかけて来た。


「店員さんは、本当にお料理が上手なんですね」


先日、酔いがまわったアンさんは、俺の事を「しょうくん」と呼んだのに、今夜はいつも通り「店員さん」と呼んだ。


「ええ。ここに来る前は包丁片手に仕事をしていましたからね」

「そうなんですね」

「少なくともマスターよりは上手だと思います」

「ふふっ、あの日のポテトサラダ、すごく美味しかったです」

「ありがとうございます」


珍しい。今夜は話しかけてくれた。

多分あの日の出来事が、アンさんの中でのキッカケになっているんだろう。アンさんは少しだけ砕けた感じになっていた。


以前の俺達はただの店員と常連のお客さんでしかない間柄だった。

用事以外に俺から無く話しかける事も無ければ、アンさんから俺に話しかける話題も無い。


だけどあの日のから少しだけ変わった事がある。つまり用事以外の、共通の話題が出来たのだ。

だから、ちょっぴり仲良くなった店員と常連のお客さんとしてなら、先日の話題でのみ、話が出来る位には、関係性が進展したのだ。


…でもなぁ。

俺がちょっぴり憧れて、あの日を境に可愛い人だと思ってしまったアンさんは、あの日の事があろうと無かろうと、この店のお客さんで、俺はタダの店員だ。

つまり、どう転んでも、それ以上でもそれ以下でもないのだ。


それにもう分かりきっている。

アンさんの好きな人は、俺じゃない。『じろう』とやらだ。


俺はあの日の別れ際の事を思い出した。

学生時代と違って、大人って簡単に動けないよな…。


店員さんと常連さん。

だからあの日、別れる直前に「良ければコーヒーでも飲みに行きませんか?」って気軽に誘えなかったんだ。

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