第12話 アンさんのお願い(2)

「ショウ君、抱いても良いですか?」


衝撃的なアンさんの言葉に、俺は持っていた食器を落としそうになった。


「えっと…それは…」


どういう意味ですか?と声は続かなかった。

だって抱いて欲しいでは無く、抱いても良いですか?って何それ?


「あ、あの?」

「似てるんです!」


アンさんの返事で、俺は何となく分かってしまった。

そうか。俺はアンさんを振った、『じろう』とやらに似ているのか。


正直に言うと、すげえムカついて腹が立った。だけどここはお店で、アンさんはお客さんで俺は店員さんだった。

だからだろうか、何かが一気にスッと冷めるような感じがして逆に冷静になれた。


「じゃ、それ終わったら一人で帰れますか?」

「え?」


この時の俺は、相当冷たい眼差しでアンさんを睨んでいたかも知れない。

だって本当は怒っていたから。

だけどそれを表立って顔に出さないように努めた。

そうしていると、静かにキレ続けたというより、今の状況が物凄くバカらしくなってしまった。そして色々な事を考えるのを放置した。

多分それは諦めに似た、投げやりな気持ちだったのかも知れない。


そして思い出したのは、自分達姉弟の過去。

そう。俺達を振り回した父親との出来事を思い出すような、そんな怒りを通り超えた、諦めの気持ちに似た静かな感情だった。


「で、どうしたら良いんすかね」


冷めた目で自分を見る俺の視線に違和感を覚えたのか、アンさんは困惑するような顔に変わって行った。そして謝罪の意を告げ始めた。


「ご、ごめんない…あの…わたし、」

「別に良いですよ。別にどうでとでも。お客さんの好きにしてもらって」


鼻でフンと笑いながら、俺はアンさんと過ごしたソファー席に移動し、ドカリと座りこんだ。そしてアンさんに投げつけた。


「さぁどうぞ」


深くソファーに座り、放り投げた気持ちを表すように、両足を投げ出して座った。

そして頭部をソファーの背もたれに乗せて、諦めたかのように静かに目を閉じた。

どうにでもなれだ。俺は、アンさんが何かをし終えるのを待つ事にした。


やがてアンさんは観念したのか、ゆっくりとアンさんが近づいてくる気配がした。そして俺の傍のソファーがゆっくりと沈んだ。

そっと目を開けて確認すると、アンさんは席に座らず、片膝をソファーの上に乗せているだけだった。

はぁ、どうするつもりなんだろ。

少しだけ自分の目線より上の方にあるアンさんの顔を見上げるようにして冷ややかな目で睨みつける。


俺の目線の先のアンさんは、何故だか少しだけ泣きそうな顔をしていた。

泣きたいのは俺の方だ…とは言えなかった。

なんだよ、その顔…。


「ごめんなさい…」


アンさんは謝りながら俺の顔を抱きしめた。

アンさんの胸に沈む俺の額。

そして俺の頭の上で何度も顔をこすりつけるアンさん。

俺の柔らかい髪を何度もすきながら耳にかけるアンさん。


「ごめんなさい…、ごめんなさい…」


アンさんは泣いている。

そんなアンさんの様子に、俺の怒りや呆れ、諦めはどこかに行ってしまった。

そして俺の中の静けさも消え失せ、まるで凪のような何もない状態になった。

だから俺はアンさんの気が済むまで、静かに目を閉じて時間が過ぎるのを待つ事にした。




******




暫くそのまま時間が過ぎるのを待っていたら、アンさんは気が済んだのか、帰りますと言った。

財布から1万円札を取り出すと、そのまま店を出ようとしたので、俺は呼び止めた。


「おつり…それとタクシー呼びますから」

「おつりは良いです。それに〇〇町なので、歩いて帰れます」


俯きながら答えたアンさんに、俺はため息を吐いた。

おつりは構わないとしても、恐らく今の時刻は25時は過ぎている。

女性一人が歩いて良い時間じゃない。


「なら送ります、俺、自転車なんで気にしないで下さい」

「流石にそれは、店員さんに悪いです…」


その言葉に俺は何度目か分からないため息を吐いた。


「別に気にしなくて良いです、少しここで待っていてください」


さっきのは悪く無くて、送るのは悪いんだ。

そんなアンさんの身勝手さに、呆れを通り超えて、段々と頭が冴えて来る。

俺の強い剣幕に、アンさんは何も言えなくなったらしい。


「すみませんが、お願いします」


そう言ってアンさんは素直に頭を下げた。


俺はアンさんをソファー席に座らせると、手早く店の片付けを済ませ、さっさと私服に着替えた。そして自転車を押しながらアンさんの家の方へ向かった。


二人で並びながら歩き、静かな商店街を抜けて、やがて住宅街に入った。

会話は無かった。以前は居心地の良いと感じたアンさんの隣が、妙に痛々しく遠く感じるのは気のせいでは無いと思う。

こうして30分ほど歩くと、アンさんの住む町に着いたらしい。


見覚えのある街並みに、そう言えばこの辺りは松山の家が近かったなと思い出した。


「あの…」

「…何でしょうか?」

「店員さんの彼女さん…お綺麗な方ですね」

「は?」

「前に、この辺りで一緒に居るのをお見掛けして…」


アンさんの言葉に、先日俺と松山が一緒に居たのをアンさんが見かけていた事を知った。そうか。あの日、アンさんもこの辺りに居たのか。

でも、だからって、何なのだろうか。


「そうでしたか。…でもまだ彼女じゃないですね」

「え?」

「まだですけど、いずれ…ですかね」


松山の事はそんな気も無いのに、何故だかこの時の俺は、こんな言葉を口にしていた。それは多分だけど、まだどこでアンさんの事が気になっていたのだ。

だから松山の事を自分の彼女とは思われたくなかったのかも知れない。

そんな自分の気持ちを見透かされるのが嫌で「いずれ」と曖昧な言葉を持ち出したのだ。女々しいな、俺。


「あの…」

「まだ何か?」

「あ、いえ。店員さんのお名前って、『ショウ』さんで合ってますよね?」


アンさんの言葉に肩が揺れる。今度は俺の名前?一体アンさんは何を考えているんだ?

どうやら今の俺は腹の虫が収まっていないらしい。

意地悪という訳じゃないけれど、質問には答えず「お客さんは?」と逆に質問で返した。


「あ、すみません、そうですよね、先に名乗らないと。大川杏子キョウコです。杏子アンズと書いて、キョウコです」


アンさんの名前に再び肩が揺れる。

そして努めて冷静を装い、会話を続けた。


「…あぁ、それでアンさん」

「はい、朝ドラに出た女優さんで、アンと言う名前の方がいらっしゃいますから…ニックネームみたいな感じです」

「そうですか」

「店員さんは…」

「池田ショウです」

「やっぱりそうなんですね」

「はい」


俺はキッパリと嘘の名前を告げた。

将司と言う本当の名前は言わなかった。

だってアンさんが知る必要はないし、知らせるつもりも無いから。

再び訪れた沈黙の時間。それが終わったのはアンさんの家に着いたからだ。


「あ、この建物です」

「ではここで」

「はい。本当にすみません、ありがとうございました」

「はい…では、さようなら」


ぺこりと頭を下げて、素っ気ない挨拶をすると俺は自転車の乗って自宅へこぎだした。結局頭を下げたままでアンさんの顔は見ないまま、一度も振り向かずに家に向かった。

それは怒りとかそう言った感情からでは無い。混乱だ。


だってそれは仕方が無い。

アンさんの名前は、大川杏子だった。

単なる偶然だ。

俺はそう言い聞かせながら自転車をこぎ続けた。

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