第11話 アンさんのお願い(1)
久しぶりにお店に来たアンさんは、もの凄く綺麗だった。
なんだろ?
結婚式の帰りなのかな?
いつもより、うんと着飾っていて、雰囲気が随分と違って見えた。
「マスター、ハイボール下さい」
「かしこまりました」
なんだろ?
服装も違えば様子もいつもと違う。
少し怒っている?そんな雰囲気だった。
そんなアンさんにマスターはいつも通り。何事も無いような顔をして接している。
そうだな。詮索なんて野暮だし、店員の俺がするのも変だ。
だから俺も気にしないように切り替えて仕事に集中した。
やがて常連さんの二人組がお店にやって来た。
「いらっしゃいませ」とマスターと俺が挨拶をすると、常連さんは、軽く手を上げて目の前のカウンター席に座る。
「アンちゃん、今日はいつもと雰囲気が違うね」
「いつも綺麗だけど、今日のドレス姿も良いね」
「ありがとうございます…」
常連さん達は、いつもと違うアンさんの様子に笑みを浮かべながら声をかける。
けれどお礼を伝えるアンさんの、少し沈んだ表情が気になった。
やがてお客さんが何組か入れ替わるくらいに時間が過ぎた頃、マスターがアンさんに声をかけた。
「今日はいつもより少しペースが早いですね」
「…何となく呑みたい気分で」
「前みたいに潰れないようにして下さいね」
少し意地悪そうな顔で冗談を伝えるマスター。
そんなマスターの言葉にアンさんもフッと笑みが零れ、少しだけ纏っていた沈んだ空気が変わる。
「はい…でもダメだったら、ショウ君に送ってもらいます」
そんな冗談を言える位になったんだな…なんてアンさんの中の自分の地位を誇らしげに思っていたら、アンさんがカウンターの上でうつ伏せになるのが見えた。
「「え?」」
アンさんへ目をやっていたマスターと俺は顔を見合わせた。
やがてマスターが少し口元を緩ませて、妙な表情で俺の顔を見だしたので、俺は身振り手振りを使って否定をした。
いやいや。マスター、俺達そんな関係じゃないの知ってるでしょうに。
笑えない冗談を言いそうなマスターをよそに、俺は少し焦りながらアンさんの声をかける。
もしかして、また酔いつぶれてる?
「お客さん、もう店で寝ちゃだめですよ、タクシー呼びましょうか?」
アンさんは「起きてます」と言いながらも、全く顔を上げてくれない。
とは言え、まだ閉店の時間では無い。
「お水置いておきますよ」
どうやらマスターは、前回と同じく放置を選択したらしい。
他の常連さんも前回と同じようにアンさんをそのままにして、そっとして置く事にしたようだ。
う~ん。前回の二の舞には成らないよね?
そんな懸念を抱きつつ、俺もアンさんの事はこのままそっとして置く事にした。
*****
やがて閉店の時間になった。
近頃のマスターは閉店時間と共に店を出る。
これは俺とマスターが話し合って決めた。
だってお互いに姉さんの体調は気になるのだから仕方が無い。
だから前回のアンさんが酔いつぶれた日は、俺とマスターの二人で片付けをしていたけれど、今回は俺一人になる。
と言う事は、さっさとアンさんを起こして家に帰さないといけない。
「お客さん、マスターも帰っちゃいますので、起きて下さいね~」
前回と同じように、俺はアンさんの肩を、ちょんちょんと揺すった。
「…起きてます、起きてますから…」
起きていると言いながらも、頭が起きてこないアンさん。
う~ん。不味いなぁ。そんなアンさんの様子をみかねたマスターが俺に声をかけてきた。
「ショウ君、今日はさすがに残ろうか?」
「う~ん…でも俺も姉の事は心配ですしね」
「そっか。いつもごめんね、じゃぁ今日も先に帰らせてもらうね」
「はい、お疲れ様です」
うん。マスターは早く家に帰って欲しい。
そうこうしている内にマスターが服を着替えて出て来た。と言っても冬はシャツの上にセーターを着こんで、コートを羽織る感じなので着替えたと言うより、外出スタイルになった感じなんだけれど。
手早く済ますマスターのいい加減さに、少し笑みが零れる。
俺はマスターと一緒に店の外に出る事にした。マスターの見送り…と言うより、アンさんの対応の確認だ。
「って、アンさんの事ですけど、ダメだったら一緒にタクシーに乗って送りますね。…前みたいなのはちょっと困るんで」
「…だよねぇ、本当にごめんね」
お互いに苦笑いを浮かべる。
そして吐く息の白さで、夜の空を見上げる。
「まぁ、流石に二度目は無いと思いますけど」
「でもアンさん、少し変な感じだったし、早めに起こしてあげてね」
「ええ、そうします」
そんな感じで会話が終わると、マスターは手を上げて帰っていった。
俺は「お疲れ様です」と言ってマスターを見送った。
「よし」
俺はそのまま手早く店の外回りを片付けて店内に戻った。
店の中に入ると直ぐにアンさんの方へ目を向けた。
アンさんは体を起こしているので、どうやら起きれたようだ。
そんなアンさん様子に安堵するも、席から離れず、お水をゆっくりと口に含んで何か考えている様子のアンさんに違和感を覚える。
(なんか今日はいつもより、様子が変だ。服装と関係があるのかな…?)
俺はそんな事を考えながらも、詮索は止めてアンさんに声をかける事にした。
「お客様さん、早く帰った方が良いですよ。終電は間に合わないと思いますので、タクシー呼びましょうか?」
アンさんの近くへ寄り、お水の残りを確認しようとした時、アンさんは俺の方を向いて話しかけて来た。
「…店員さんはもう帰りますか?」
「はい。片付けが終わったら帰りますよ」
なんだろ?そんな当たり前の事を聞くなんて、やっぱり今日のアンさんは変だ。
妙な違和感を抱えたまま俺はカウンターの中に戻り、食器を片付け始めた。
お客さんであるアンさんが店に残っているから、本当は失礼かもしれない。
けれど閉店の時間はとっくに過ぎている。
だから俺はアンさんの事は気にせず、そのまま店の掃除をしたり、片付けをしたりして店を閉める段取りを淡々と進めていた。
それにどうせタクシーを呼ぶなら、アンさんが何時に出ようが、あまり関係無いだろうと思ったのだ。アンさんからしても、完全に目を覚ました方が、帰りやすいだろうし。
そんな感じでアンさんのお酒が抜けるまで、少しくらい時間がかかっても問題ないだろうと、俺は呑気に考えていた。
けれどそんな俺の耳に、突拍子もない言葉が飛び込んで来た。
「ショウ君、抱いても良いですか?」
「は?」
俯いたまま切り出したアンさんの言葉に、俺は呑気に構えていた数秒前の自分に、大きな後悔をしたのだった。
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