【完結】アンさんの好きな人

さんがつ

第1話 アンさんが好きなのは俺じゃない(1)

「マスタぁ~!きょう~も、ここの、お酒は、おいしゅう~ございすぅね~」


カウンター席で一人でニマニマとマスターの顔を見ながら、上機嫌でお水を飲んでいるのは常連客の「アン」さんだ。


実際の名前は知らない。

「キョウちゃん」とか「アン」、「アンさん」と呼ばれているので、「京極 杏キョウゴク アン」さんとか?そんな苗字ってあるのかな?

ネットで調べてみると「京」と書いて「カナドメ」と呼ぶ苗字もあるらしいけれど、実際の名前は良く知らない。


そんな上機嫌のアンさんとマスターを残して、俺は店の外回りを片付けながら、外の様子を伺った。


(あいつ、まだ居てる…)


今の時刻は、24時を超えた夜の1時半。

アンさんが店に来た…と言ってもアンさんを引き入れたのは俺なのだが、その時は24時を過ぎていたから、あの男は1時間以上も店の前に居るっぽい。


「しつけ…」


俺はため息を吐いて、外を片づけて店内に戻った。


マスターのお店…ここは下町の小さなバーである。

マスターの叔父である先代の店主が、マスターに店を譲ったのが今から20年以上も昔の事。そこからマスターは友人と二人で切り盛りしていたらしい。

ところが、そんな二人に訪れたのは新型感染症の流行。


マスターの友人はそのタイミングで地元に帰ったらしく、今では家業を手伝っているらしい。残されたマスターは一人で店を細々と続けていたが、俺が新型感染症で勤めていた飲食店から解雇されたと聞いて、アルバイトとして雇ってくれた。

そんなこんなで、俺がこの店に来て約2年。

今ではそれなりに店に馴染んで、良い感じに働かせてもらってる。

かつて包丁を片手に仕事をしていた俺だが、今はそれも片手間になり、マスターからお酒のあれこれを色々と習っている。まぁ修行中って事だ。


店外の不信な男をよそに、俺は店内に戻り、キッチンの片づけをしながら店の中を見回す。この店はカウンターが中心で、こじんまりとしているが、少しレトロな雰囲気もあって、妙に居心地が良い。

常連客の多くが先代の時から続けて来てくれるお客さん…というのも頷ける。


つまりこの店は、馴染のお客さんが多いアットホームな感じの店である。

だからだろう。店の外でウロウロとしている不信な男が、この店に入って来ないのは…。




*****




俺がアンさんを店に引き入れたのは、先ほどの不信な男が強引にアンさんを連れて行こうと声をかけていたからだ。

その時の俺が何故店の外に居たのかと言うと、常連さんが「ショウ君のチャーハン、ネギもりもりで食べたい」と言い出したので、コンビニに行く為に、たまたま外に出ていたからだ。

コンビニでネギをゲットして、次の角を曲がれば店のある並びに出て、もう店に着く…と言うタイミングの所で、常連客のアンさんが年上に見える男性と押し問答の様な事をしている場に遭遇した。


「ますた~に、きいて~もらぅんですぅ」


上機嫌なアンさんは、引き留める男性から離れてマスターの店に行こうとしていた。


「もう遅いですから、早くタクシーに乗って下さい」


酔いのまわったアンさんを引っ張る男性。

当然俺はアンさんを捕まえて店に連れて来た。


「すみません、そこの店の者ですが…」

「しょ~くんだ~!ますた~は?」

「店に居ますよ、行きますよね?」


半ば強引に割って入るも、嬉しそうなアンさんの様子に俺は安堵した。

一方の不信男性は俺を訝し気な様子で睨みながらも、何も言い返さずに俺達が店に入るのを見ていた。


そこからアンさんは、会話にならない会話を、水を飲みながらマスターと続けている。時折聞こえるのは、彼女の幼少の頃の話とか、実家のペットの話のようだ。


俺は頼まれた「ネギもりもりチャーハン」を作っていたし、なんならそれを見た他の常連さんが俺も、私も、と言い出して、俺は暫くの間鍋を振り続けていたから、アンさんがどんな様子だったかは詳しくは知らない。


やがてキッチンの片づけも終わり、次は店内の片づけを…と思った時、いつの間にか店の中が静かになっていた事に気が付いた。

まさか、と思いながらカウンターを見ると、うつ伏せで寝ているアンさん。

そして困った様子のマスターと目が合う。


「じゃ…俺、帰りま」

「ショウ君!頼むよ~!」


帰ろうと切り出す俺のセリフを、マスターは全力で止めた。


「嫌ですよ、ややこしい。あんたが店主じゃないですか」

「ヨリちゃんに誤解されたくない~~!!」


俺が嫌そうに断れば、マスターは愛する奥さんの名前を出した。


「頼むよ~彼女が起きるまででいいからぁ~」


マスターに「ヨリちゃん」と言われると、俺は何も逆らえない。

だってヨリちゃんは俺の姉で、たった二人きりの家族だったから。


「はぁ…。でもカウンターで寝かせるのは危なくないですか?」

「そうだねぇ…テーブル席のソファー…といっても横になるスペースはないから、そこで座らせるしかないかなぁ」


俺の懸念にマスターはテーブルを少しずらしながら、ソファー周りを広くし、アンさんがゆっくりと座われる場所を作った。


「貸しですよ」

「流石!俺のかわいい弟よ!」


上機嫌に俺の頭を撫でるマスターの事を、どうやら俺は嫌いになれないらしい。

暫くするとマスターは家に帰って行った。


「それじゃね~。例の男がまだ外に居たら連絡するから、その時は気を付けてね~」

「は~い、お疲れ様です~」


マスターを見送ってから、アンさんの方へ目を向ければ、彼女はカウンターのテーブルの上で、穏やかな寝息を立ててスヤスヤと眠っている。


「アンさん、危ないなぁ…」


俺は苦笑いを浮かべて、眠るアンさんに向けて呟いた。

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