第34話 放っておけない人(1)

熱い夏が本格的に始まった。

夕方のまだ暑さの残るアスファルトの道を俺は自転車で店に向かう。

汗だくになるので、最近はTシャツにハーフパンツ。

キャップまで被って、まるで子供みたいな服装で仕事に向かっている。


そう言えば俺が小学生の頃には姉さんがもう働いていて、俺は学童とかに入ってたっけ。中学生の時はどうしてただろう?

そっか。部活もしないで家の用事や家事をやってたか。


俺は早く働きたかったけれど、姉さんに高校には行きなさいと言われて、渋々だけど通う事にした。だから学校以外の時間はバイトばかりに気が向いていた。


本格的にバイト先を探していた時、当時の求人先の多くは飲食店ばかりだった。

たから家から通いやすい店で候補を絞ると、該当したのも飲食店で、そこは調理スタッフを募集していたから、俺はそのまま料理の道に進んだんだっけ…。

こう言うのも偶然で、縁のようなものなのか?


偶然と言えば、この頃に俺はアンさんと再会していたらしい。

その事は全く覚えていないけど。


やがて高校と調理師学校を卒業して就職。

卒業してからずっと働いていた店を解雇された時はショックだった。

だけどそんな俺に自分の店に来ないかと、声をかけてくれたのが明人さんだ。

明人さんも今まで共に働いていた人が田舎に帰ったので、声をかけやすい状況だったのかも。そう言えばこれも偶然で縁なのか?


そして俺は、明人さんの店で再びアンさん事、キョウちゃんに出会った…。

そんなアンさんとの偶然の再会の事を考えていたら、松山の言った言葉を思い出した。


『でもさ、それって最初から私じゃない気がする』


そう言った松山はどんな顔をしてたっけ?

それと最初から…違ってた…とは?

あれ?その時、最初の時って、俺は松山に何て言ったっけ?


『あのさ…俺、店のお客さんで、ちょっと気になっている人がいたんだ』


そうだ。ちょっと気になっている、だ。

それは本心だったはず。本当にちょっとだけ気になっていたから。


そんな事を考えていたら、何でだろうと思いだした。

ちょっとだけ…って、何が少しだけ…?

気になるって…なんで、勝手に失恋って思ったんだろ…。


あれ?


「失恋…?」


俺、失恋したっけ?いつ?

鈍った思考を動かせば、俺は急に自分の周りの暑さが増したような気がした。

そして妙ないたたまれない気持ちを抱いてしまった。

何故だか直ぐにでも手で口を覆わないと、変な声が漏れ出て来そうだった。

やばい。


俺は自分の忘れていた気持ちを思い出した。


「ショ、ショウ君、顔が真っ赤、まさか熱中症?」


自分の気持ちに混乱する俺の背後から、明人さんが声をかける。


「大丈夫です…」


全く大丈夫でないくせに、そんな返事をした。

恥ずかしくて明人さんに顔を向ける事が出来ない俺は、キャップを深く被りなおして顔を隠した。


「早く店に入って冷房つけよっか」


明人さんは俺の言葉で安心したのか、俺の止めた自転車の横に自転車を止めると、俯く俺の背中を押しながら店の中へ入って行った。


「冷えるまで時間がかかるから、エアコンの下で少し風に当たってた方が良いよ」


明人さんはエアコンや照明のスイッチを押して店を整え始めた。

俺は明人さんの言葉に甘える事にした。

少し頭を冷やした方が良い。


生ぬるい風がひんやりとした風に代わる頃、頭も冷えて来たようで思考が回り出した。

そうか、俺はアンさんの事が最初から気になっていた…。

それは恋愛になる前の、まだふんわりとした形の無いものだったけれど。


だから放っておけなくて、酔い潰れたアンさんを介抱しようと思ったんだ。

そう。酔い潰れたのがアンさんじゃなければ、早々に起こしてタクシーに突っ込んだはずだ。それに朝ごはんなんて用意もしない。


そして婚約者と一緒に来た日。

店を飛び出そうとしたアンさんに、いち早く反応が出来たのは、俺がアンさんを放っておけなかったからだ。

アンさんがただのお客さんだったなら、婚約者に「危ない」と、けしかければ良かったし、そうしていたはずだ。


「放っておけない…」

「え?」


そんな俺の独り言にマスターの明人さんは反応した。


「マスターが姉さんと一緒になったキッカケって、放っておけない?とかじゃなかったですか?それってどういう意味ですか?」

「えぇ?急にそれ?ショウ君が気にするほどでも無い話だけど…」


少し困った顔をしたマスターは、渋々と言った漢字で、姉さんとの出会いを教えてくれた。

話がまるでどこかのドラマのような修羅場だったのは、きっと少しだけ脚色めいて教えてくれたのかも知れない。


「その時のヨリちゃんの彼氏ってのが酷くてさ。それで、そのまま置いておけないと言うか、そんな感じで割って入って」

「そうなんですね」

「でも…そうだな。放っておけないと言うのは、それより前の気持ちが元になっているのかも」


それより前の気持ち?とは?


「そもそも僕だって、他人の修羅場なんて見て見ぬふりするか、Uターンで引き返すよ」

「…そう言われるとそうかもですね」

「だからって訳じゃないけど、やっぱり最初から『気になった』が動機だろうね。この事の意味は僕にはわからないな」


そう告げたマスターの顔は、何かを思い出したようで、少し崩れた苦笑いのような笑顔だった。

そう言えばマスターは再婚だっけ。

俺が何も言えずに黙っていると、マスターはカウンターの中へ入って行った。


「ショウ君落ち着いた?」


再び俺の元に戻ったマスターは、俺にお水を持って来てくれたらしい。


「すみません、ありがとうございます」


お水を受け取った俺は、それを一気に飲み干した。


あぁ、そうか。喉を通り、体の中にゆっくりと染みていく水を感じていると、急に自分の思いが腑に落ちてしまった。


「明人さん、俺、アンさんの事が好きみたいです」


俺は多分少しだけ、苦笑いを浮かべていたと思う。

マスターは複雑そうな顔をしていた。


「だからって、婚約者さんが居るんで、今更ですよね」


諦めからそう言った俺は、今度は上手く笑えただろうか。

そんな俺をじぃっと見ていた明人さんはアドバイスをくれた。


「もしショウ君、君がそれを望むなら、君の父親に相談しても良いかもしれないね」

「…父に…ですか?」

「ヨリちゃんも僕も出来る事は無いし、言える事も無さそうだからね。もし君に何か出来るものがあるとしたら、君が父親を頼るのも悪くないと思っただけ。もちろんこんな話、強制でどうにかなる話じゃない事は、理解しておいた方が良いけれど」


そう言った明人さんは少し寂しそうだった。

けれどきっと本当に明人さんの言う通りで、明人さんも姉さんも俺に言える言葉なんて何も無いのかも知れない。


「さぁ、仕事に戻ろうか?」


何も言えない俺に向かってそう言った明人さんは、いつものマスターに戻っていた。


「はい、色々とありがとうございました」


頭を下げてお礼を言う。

俺は空になったグラスを持ってカウンターへ戻り、開店の準備に入った。


こうして今日もいつもと変わらない日常が始まる。

けれど俺の中では、新しい何かの始まりの日のような、そんなスッキリとした気持ちも抱いていた。




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