第30話 変化(3)

姉さんが松山の見舞い了承してくれたので、俺は彼女を連れて産院へ向かった。

産院の受付の脇にある階段を上がり、2階に着くと、そこにはガラス窓の向こうに小さなベッドが並んでいて、その中でまだ産まれたばかりの小さな赤ちゃん達がスヤスヤと眠っていた。


「わ~、小さいな~、可愛いなぁ~」


松山はそんな赤ちゃん達を見て幸せそうに笑っていた。

小さな赤ちゃんは眠っている子もいるけれど、もぞもぞと動いていたり、泣いたりして、それなりに忙しそうだった。そんな微笑ましい光景を楽しむと、俺は松山を連れて姉さんのいる病室へ向かった。


入室すると、ちょうど姉さんの産んだ赤ちゃんも同室しているらしく、入る時に入念に手を洗うように言われたのでその通りにした。


「今、母乳をあげたばかりだから、あまり動かないかも」


姉さんは俺達をベビーベッドの近くに来るように手招きをした。

ベッドの脇から赤ちゃんのを覗き込むと赤ちゃんは、まどろんでいるように見えた。


「あ~凄く可愛い!ママの雰囲気にそっくり!…あぁ、でもこの小さい鼻は、ちょっとマスターに似てるかも」


松山が小さな声ではしゃいで、明人さんにも話しかけていた。

俺も松山のように赤ちゃんの寝ている小さなベッドを顔を覗き込む。

う~ん。どっちに似ているかは、ちょっと分からないな。


「姉さんお疲れさん、少しは落ち着いた?」


松山の傍で赤ちゃんを見ていた姉さんに声をかけた。


「そうね。かなり休んでるよ。今は夜も寝れるから、退院後の方が大変かな?」


俺の質問に笑って応える姉さんの顔は、俺の遠い記憶の母さんにそっくりだった。




******




そんな感じで退院のスケジュールを聞いていたら、松山が声をかけて来た。


「あんまり長居するのも良くないから、そろそろ帰えるね」

「あ~そっか」


松山は差し入れ用に買って来た手土産を明人さんに渡している。

なら俺も帰るか。特に用事も無いし。

俺は松山に声をかけ一緒に帰る事を告げると、姉さんと明人さんに挨拶をして病室を出た。

土曜日の昼の診察はやっていないらしく、来た時も帰る時も産院のロビーは静かだった。


既にお昼を回っている土曜日は、平日とは違う静けさがある。

俺達はあまり話をせずに帰路に着いた。

間もなく松山の家に着く…という所で松山は話を切り出した。


「ねぇ、マスターの奥さんって池田のお姉さんなの?」

「あれ?言って無かった?」

「…うん。さっき姉さんって言ったから」

「そっか」

「あとさ、二人家族ってのも、前にバーで会った池田の友達に聞いて知った。それと、彼女とか作るのも考えて無い…ってのも聞いて知った」


松山の真意が分からない。


「…えっと?」

「もしかしてだけど、私としないのも、理由があるんじゃないの?」


松山の問いに俺は何も言い返せなかった。

気が付けば松山の住むマンションの前まで来ていた。


「それに『まだ』って言ってたけど、ずっと『まだ』…って可能性もあるよね?」


確かに、今は『まだ』だけど。

でも少しは…。もしかしたら…。


「それは…。今は…多分違う…かも知れない」


けれど、そんな俺の曖昧な言葉は松山には届かなかった。


「でもさ、それって最初から私じゃない気がする」

「え?」

「ぶん殴って良い?」


松山は俺の襟元をつかんで俺を睨みつけた。

そうか…そうかも知れない。松山にはその理由があるかも知れない。

だから俺は「わかった」と答えた。


その答えに松山は何故だか良い顔で笑みを作った。


「ふふ、じゃあ、目をつぶって歯を食いしばれ!」


俺は素直に従い、目を閉じて身構えた。

すると唇に柔らかいものが触れた。驚いて目を開けると松山と目が合って、その後、俺は唇を噛まれた。


「って!」

「あはは、ざまぁみろだ!」


そう言って笑い出す松山に、俺は何も言えなかった。


「新しい彼氏が出来たら、店に行く。それまで会わない!」


松山はくるりと向きを変え、パタパタとマンションの中に入って行った。

唇の端にジンジンと残り続ける感触。

俺はそんな痛みに成らない痛みと共に、呆然と松山の後姿を見送っていた。

けれど瞬くすると、唇の鈍い感触が輪郭をおびて、段々と痛みとして馴染んで来た。


「……」


俺はその場を後にして、少し頭を冷やそうと歩き出した。

結局、俺は松山を利用したのかも知れない。そんな結論にすぐにたどり着いた。

だから松山が怒ったんだ。


俺は俺でいたい。自分を誰の代わりのような、都合よく使われる人間でいたくないと思っていたのに。

それなのに、俺は松山をそんな風に扱っていたのだ。


自分がそんな底の浅い人間だと知って、いたたまれない気持ちが湧いた。

恥ずかしい…。

そしてそんな自分の行動を後悔もしたし、嫌悪感も抱いた。


苦いものを抱えながら、駅に向かう道を歩いていると、俯く視線の先に女性の足元が見えた。


「あ、すみません」


ぶつかると思い、咄嗟に立ち止まり、目線を上げてと謝ると、そこに居たのはアンさん…大川杏子さんだった。


「あ…」

「…こんにちは…」


突然の出会いに戸惑う俺をよそに、アンさんは普通に挨拶をしてきた。

だから俺もそれに答えるように「こんにちは」と言った。


挨拶の後のアンさんは黙ったままだった。

俺の方も居辛く、なんとなく顔も合わせ辛い。

どうやってここから離れようか?そんな事を考えていたら、アンさんが話しかけて来た。


「駅前に美味しいコーヒーを飲める店があります。ご一緒しませんか?」


突然の誘いに驚く俺。


「前にポテトサラダとパンを頂いた時に、コーヒーが欲しくなるとおっしゃっていたので、お店を出た後にでもお誘いしたかったのですが…今日になってしまいました」


そう言ったアンさんの顔は少し寂しそうだった。

だから俺も素直に気持ちが出たのだと思う。


「俺もそう言えば良かったな…って思ってました」


それは社交辞令ではない、俺のいつかの本心だった。

その言葉にアンさんは少し肩を揺らした。


「では、ご馳走させて下さい」

「…はい…」


肯定の返事をすると、アンさんは向きを変えて歩き出した。

俺はアンさんの横に並ぶ事も無く、後を追うような行くような形で、彼女の背中について行った。













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