第45話 構築(1)

父さんが家に戻った。

それは俺が小さな頃に住んでいただ。


桜田さんが言うには、今は父さんしか住んでいないらしい。これは少し前に聞いた事がある。

それで父さんが体調を崩してからずっと留守になっていた。

だからだろう、桜田さんとアンさんが時折尋ねては、風を通していたのだと教えてくれた。


そんな話を事前に聞いていた事もあって、退院の日、父さんと一緒にこの家に戻った時、自分の記憶を探るような形で大きな門扉を眺めてみた。

けれど思い出せる事が何も浮かばない俺は、初めて訪ねるような気持ちを抱いていた。


タクシーから降りて父さんを肩に抱えながら、ゆっくりと門扉をくぐる。

そして、玄関を眺めながらぼんやりと歩いていると、不意に桜田さんが声をかけて来た。


「今日は将司が来ていただいたので助かりました」

「まぁ、退院の日くらいは…」


注意が散漫していた訳では無いけれど、気が抜けていた気まずさと、感謝の言葉に多少の照れくささが混じった気持ちのままそう告げた。

先を行く桜田さんは、玄関のカギを開けると、扉を引いて中へと促してくれた。


カラカラと軽い音を立てて引き戸が開かれる。

広い玄関の突き当りには、黒くて重たそうな花を生ける器があった。


「あ…」


戸惑いの言葉は、この空間に花が無い事への違和感だった。


あぁ…そうか。

俺は花が生けてある光景を見たことがあるんだ。


「どうした?」

「あぁ…、少し見覚えがあると思って…」


俺は父さんを玄関の上がりかまちに座らせ、広い玄関を何となく見渡した。

そう言えばこの家を出る時に、アンさんと一緒にここから外に出たような気がする。


「寝室は仏間の奥に用意してありますので…」

「うん、ありがとう。将司は分かるか?」

「いや…見たら思い出すかもだけど…」

「そうか」


再び父さんを抱え立ち上がらせると、桜田さんは縁側の雨戸を開けたのだろう、明るさと心地よい空気の流れを感じる事が出来た。


そこから桜田さんの案内で明るくなった縁側を抜けて仏間に入った。

仏間の向こう、ふすまを開けた先に、和室の部屋には似つかわしくない、少し無機質なベッドが置いてあった。


「二階の荷物は運んであるのかな?」

「はい、言われたものは移しております」

「あぁ、風が抜けるから自分の部屋よりも居心地が良さそうだ…」


父さんへの受け答えをしながら桜田さんが部屋の窓を開けると、縁側から仏間へと抜けた風が、この部屋にも入って来た。


「この部屋は…入った事は無いか」

「仏間の方は入った事があるかも知れない」

「…そうか」


風を通して部屋の様子を確認した父さんは俺を仏間へと促して、一緒に仏壇に手を合わせて挨拶をした。


「落ち着かないか?」

「…よくわからなくて」


「そうか」と言った父さんは、少しだけ苦い笑いをしていたかも知れないけれど、俺はどうしても居心地の良さを感じる事は出来なかった。


「将司様、少しよろしいですか?」


そんな二人の気まずさを見抜いたのだろうか。

桜田さんは俺に声をかけてくれたので、父さんを部屋に残して一緒に台所へ向かう事になった。


「落ち着かない場所よりは、台所の方が居心地が良いかも知れません」

「…すみません…」

「秋になったとは言え、まだ暑いですからね」

「はい…」


桜田さんは俺の額に浮かぶ汗を見たのだろう。

そう、さっきから俺は何故だかジトっとした汗が止まらなかった。


「冷たいお茶を用意して置いて良かったです」


桜田さんはそう言って冷蔵庫から緑茶のペットボトルを取り出し、グラスに注いだお茶を俺に差し出すと、得意そうな笑みを浮かべていた。


俺はお茶を受け取ると、そのままぐぃっと勢いよく飲みこみ、小さくふぅと息を吐いた。

冷たいお茶を喉に押し込めば、さっきまでかいていた汗がすぅっと引いていくような気がした。


「…ありがとうございます。少し落ち着いた気がします」

「それは、ようございました」


桜田さんに勧められるまま、俺は台所の中央にある小さめのダイニングテーブルへ座った。

俺がそこへ落ちついたのを見ると、桜田さんは電子ケトルへお水を入れ、お湯を沸かし始めた。


少しだけ、ひんやりとする台所。


そう言えば勝手口の奥には、土間があったような気がする…。

俺はそれを確かめるべく席から立ちあがり、勝手口の横にあるガラス戸を引いてみた。


「あ、やっぱり」


俺の声を聞いたのだろう、背中から桜田さんの「どうされました?」と言う声が聞こえた。


「いえ、土間が有ったような気がしたので」


俺は振り返らずに、ガラス戸に手をかけたまま、暗い土間を見て答えた。

見下ろした土間の景色に妙な違和感を覚えるも、この暗くて冷たそうな狭い土間に懐かしさを感じていた。


「あぁ…そうですねぇ。将司様は、よくここに隠れておいででしたから」

「え?」

「お勝手から入ってすぐ脇にありますからね」

「…かくれんぼ…でしょうか」

「そう言う時もありましたが、そうではない時はミルクが多めの温かいココアを好まれていましたかね」

「…そう…ですか」

「今は冷たいお茶が良いようですね」


桜田さんがそう言った時、電子ケトルのカチッという音が聞こえた。


「あぁ、お湯が沸いたようですから、旦那様へお茶を持って行きます。将司様は、ここで少し休まれてはどうですか?」

「はい、そうさせてもらいます…」


桜田さんがニコリとした顔で頷くので、俺は少し頭を下げて「すみません…」と答えて元の席へ戻った。


そうか、さっきの違和感は身長の差か。

小さな俺と今の俺の目線の高さの違いなんだろう。さっき見た土間を俺は狭と感じた。


席についてお茶のお代わりを飲んでいると、父さんのお茶を煎れた桜田さんが台所から出て行った。

桜田さんの気配の消えた台所は、しんとした静けさだけが残されているようだった。


そんな静けさの中、グラスのお茶の緑色を眺めていた俺の耳に、一定のリズムで刻まれる壁時計の秒針の音が入って来た。


時計の音はチクタク…と表現する人も居るけれど、聞こえるのはそれよりも重くて鈍い音だ。


タッ、タッ、タッ…


一定のリズムで刻むその音は、どうやら俺の記憶の中にもあるらしい。


あぁ、この音は知っている。

そう思った俺はテーブルに少しだけ伏せて、目線を当時の俺位に下げて、天井にほど近い壁時計を見上げる事にした。


あぁ。

見たことがある。


タッ、タッ、タッ…


さっきから狂い無く、一定に刻まれる鈍くて重い音。

その音を聞いているうちに、俺はその日の事を思い出し始めた。


「時計の…読み方だ…」


そう。

幼い俺に時計の読み方を教えてくれたのは、アンさん…キョウちゃんだ。


「くっ…」


そこから芋ずる式に思い出された記憶。

俺は自分の前髪をクシャリと握りしめながらそれを味わった。


まだ何も知らない小さな俺は、時計の針がグルグルと回れば回るほど、自分は勝手に大人になるものだと、素直に感じていた。


(じゃあ、あの時計の針が、いっぱい回って、何回も何回も数えきれないくらい、いっぱい回って大人になったら…)


得意になってそう切り出した俺。

そんな俺の言葉に、キョウちゃんは「えぇ?大人に?」と言って面白そうに笑っていた。

だから俺は得意になって話を続けたんだ。


「キョウちゃんを…僕の…お嫁さんに…する…」


そう当時の言葉を呟いた俺の上に、重くて鈍い時計の音が降り注いでいく。

桜田さんから聞いた時よりも、アンさんから聞いた時よりも、よりリアルな感覚が蘇る。


タッ、タッ、タッ…


所詮、小さな子どもの約束じゃないか…。

けれど、そう言い切れないのは、あの日、別れ際のアンさんの様子を思い出したから。


ぎこちない笑顔で「さようなら」と言ったアンさん。


あぁ。

そう言えばアンさんの楽しそうな顔をずっと見ていない気がする。

俺はテーブルへ顔を伏せ、そして、まだずっと何もなかった、ただの店員さんだった俺とアンさんとの距離を思い出した。


あの頃の方が良かったじゃないか。

そんな後悔に近い言葉が頭を過るも、今の俺はそれを否定する事が出来た。


「違う…、謝らないと…」


そう、何もかも今更なんだ。

それに、やり直せなくても、ダメでも何でも仕方が無い。


けれどアンさんにあんな顔をさせた事は謝らないと…。

そう心に決めた俺は、もう一度ぐぃっと冷たいお茶を喉の奥へと押し込んだ。


























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