アオの歌が聴こえる

宇目埜めう

第1話 貫井ひよりは、唐突に声を失った

 ステージの上で、貫井ぬくいひよりの顔はゆがんでいた。

 苦悶の表情。

 素人が作ったステージにしてはやけにった赤い照明に照らされた顔は、血にまみれているのかと見紛みまがってしまう。

 ステージの真ん中で苦しそうに口を歪めた姿は、どこか絵画的で、地獄の淵で断末魔を上げているかのようでもあった。


「ひよりのやつ、どうしたんだ……?」


 ひよりは誰よりも歌が上手い。子供の頃からずっと歌が上手い、自慢の妹だ。

 

 六歳の誕生日に歌ってくれたハッピーバースデー。あれを聴いたときから、俺はひよりの一番のファンになった。自分の誕生日なんかそっちのけでひよりの歌を褒めた。せっかく用意してくれたケーキやプレゼントよりも、ひよりの歌に感動した。普通の一軒家のダイニングで歌わせるには勿体無いくらいの歌声だと幼心に思ったものだ。


 ひよりもまんざらじゃなかったのか、その日以来、歌と音楽にのめり込んでいった。のめり込めばのめり込むほど、ひよりの歌は上達していった。


 中学に上がる頃には、本気でプロの歌手になりたいと言うようになった。それを人前で、臆面なく言っても誰もバカになんかできないくらい、ひよりの歌は上手かった。


 愛嬌も抜群だった。


 アイドルにでもなれば、即天下を取ること間違いなし。親バカならぬ兄バカと言われようがシスコンと言われようが構わない。紛うことない事実だからだ。


 天賦てんぷの才とは、ひよりの歌を言うのだろう。

 ひよりの歌には、心に直接訴えかけるような不思議な力があった。歌詞なんか関係ない。その歌声だけで誰かの心を動かすことができる。そんな歌声だった。


 俺はひよりの歌が大好きだ。

 

「私が歌うから、そうくんはギターとかピアノとか、なんでもいいから伴奏をやってよ」と、ひよりはよく言っていた。

 その影響で少しだけギターをかじった時期もあったが、ひよりが歌にのめり込むみたいには夢中になれなかった。ひよりと違って、俺には音楽の才能なんてないとすぐに分かった。


 一つ年下のひよりは、一年遅れて俺の通う不動院高校ふどういんこうこうに進学してきた。不動院高校は、部活動が盛んな高校だ。特に軽音部は過去にプロのミュージシャンを何人も輩出しているとかで、人気も高ければ評判もいい。


 ひよりの目当ては、俺なんかじゃなくその軽音部だった。


 そして今、入学してたった数ヶ月にして、一年生ながら文化祭ライブのステージでボーカルを務めている。ひよりの実力からすれば当然の結果だ。


 そのひよりが、今、ステージ上で見たこともない苦悶の表情を浮かべている。

 

「来年は奏くんと一緒に出たい」と言ったひよりのことをなぜか思い出す。あの時の笑顔とは似ても似つかない表情のひより。


「ひよりちゃん、どうしたんだろうな」


 耳元で悠治ゆうじの呟く声が聞こえた。わざわざ俺の耳のそばまで口を近づけているのは、やかましい演奏のせいだ。


 ひよりが苦悶の表情を浮かべていても、演奏は続いていた。

 ひよりの歌と比べると、演奏はそれほど上手くはない。ひよりの歌が上手すぎるから、余計にそう感じるのかもしれない。ひよりの歌と比べたらプロの演奏ですらかすんでしまう。


「……わかんない。どうしちまったんだろうな」

 

 ステージ上のひよりは、両手でマイクをきつく握り締めていた。必死でマイクに向かって口を開けている。マイクを丸ごと飲み込んでしまいそうなほど大きな口を開けている。


 叫ぶように大きな口を、開けている。


 それなのに──。


「そんな……こんなことって……」


 悠治がいるのとは反対側から女生徒の声がした。呟くような声だったけど、ハッキリと聞こえた。

 

 いつの間にか演奏は止まっていた。

 

 声のした方を横目で見ると、髪の毛が揺れている。黒髪の中、一部が青く染められていた。俯き気味の顔はよく見えない。


「こんなこと、あるわけないよ……」


 青いインナーカラーの女生徒の声は、震えていた。


 ついさっきまで熱狂に包まれていた公会堂は静まり返っている。熱狂を起こしていた演奏も、熱狂していた声や足音も。全てが消えてしまっていた。

 静かになった公会堂で、女生徒の小さくどこかオドオドした震える声はよく響いた。けれど、誰も反応しない。みんなステージに釘付けだった。


 ステージ上では、相変わらずひよりが苦悶の表情でマイクに向かっていた。そんなひよりをバンドのメンバーが心配そうに見ている。けれど、誰も近づこうとはしない。

 必死で、顔を歪めて、マイクに向かうひよりと、困惑と心配の入り混じった顔のバンドのメンバー。予定された演出じゃないことは明らかだ。


 悠治を見る。俺と目が合うと悠治は怖い顔で頷いた。


 俺はそれを合図にステージに向かって歩き出す。俺の進む先には多くの生徒がいたが、近くまで寄ると何も言わずともスッと道を開けてくれた。


『こんなことあるわけない』


 青いインナーカラーの女生徒は言っていた。全くそのとおりだ。


「ひよりっ!」


 叫ぶようにして名前を呼ぶと、ひよりの顔が上がった。


 本当に、こんなことあるわけがない。


 ひよりの顔は何かに怯えているように見えた。

 まだ幼い頃、夜中に起きてきて『トイレに行きたい』と言ったときと同じような顔をしている。


 ひよりは俺を見つけると、それまでキツく握りしめていたマイクを下げて、大粒の涙をポタポタと零した。

 そのままペタンと腰を落とす。

 いわゆる女の子座りの格好になって、そして、静まり返った公会堂のステージ上で天井を仰いで大きな口を開けて泣いた。


 聞こえてくるはずの泣き声は聞こえなかった。


 ひよりの顔が、喉が、体が震えていた。なのに声が聞こえない。


 視界から色が失われていく。

 ひよりの一連の動きが、スローモーションのように見える。

 まるで無声映画だった。


 歌が誰よりも上手い俺の自慢の妹、貫井ひよりは、唐突に声を失った。

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