第6話 かわいそうって、ギターが?

 部室に入った途端、外の雨音が急に激しくなった。ザーっという轟音とともに大きな雨粒がバツバツと窓を激しく叩いて、潰れて、滝を作る。

 

 一つだけ開けっ放しになっていた窓から、シャワーのような雨水が容赦なく吹き込んでいた。

 大きく揺れるカーテンはずぶ濡れで、床には浅い水たまりができている。窓から離れたところにいる俺の方まで霧のように細かく、生ぬるい雨粒が飛んでくる。

 

 ふっと隣のアオが動く気配があった。


 あっと思う間も無く、窓辺に駆けていったアオは、打ち付ける雨に顔を背けながら開いていた窓を閉めた。

 おかげで雨音がいくらか小さくなって、顔にかかる霧のような飛沫しぶきはやんだ。


「雨、すごくなっちゃったね」


 ほんの少しの間だったのに、打ち付けた雨はアオの顔半分を見事なまでに濡らしていた。頬にへばりついた髪の毛を、アオは丁寧に剥がして耳にかける。絵筆を引いたような一筋の青い髪に沿って、雨粒がポタポタと垂れた。


「悪い。俺、タオルとか持ってないや。そんなに濡れて、大丈夫か?」


 訊くとアオは、


「これくらい大丈夫。幸い今はもう夏だしね」

 

 とおどけた。

 そして、「この雨じゃ、しばらく帰れないね」と苦笑いを浮かべて、おもむろに椅子に座る。


「ねぇねぇ、せっかくだから何か弾いてよ。ギター。弾けるんでしょ?」


 座るなり、アオはヘソのあたりで手をヒラヒラと上下に振って、ギターを弾くジェスチャーを見せた。


「ほんのちょっと触ったことがあるだけで、人に聞かせるようなもんじゃないから。それに、もうしばらく弾いてないし……できれば、弾きたくない」


「どうして? ギターが好きだから、そのギターを持って帰ろうと思ったんでしょ?」


 無邪気に訊くアオに向かって、音楽が嫌いだから弾きたくないんだ、とは言えなかった。言えば、嫌いな理由を説明しなければならなくなる。

 理由とはつまり、ひよりのことだ。俺が音楽を嫌いになったのは、ひよりの声のことがあったからに他ならない。

 

 学校では、ひよりのことで気を使われている。学校中の人間が集まる中で、妹が悲劇的に声を失う姿を見せてしまったのだから、仕方がないのだが、まるで腫れ物のように扱われるのは心地良いものではない。

 屈託なく接してくれるアオにまでそんな風に気を使われるのは嫌だった。


 ただ、このギターなら弾いてみてもいいかもしれない、とも思える。音楽は嫌いなはずなのに、初めて見たときからどういうわけかこのギターのことが気になってしかたがなかった。

 好きとは違うが、気になってしまう。気がつくと手に取ってしまう。今だって背中にある。


「……結構雑に置かれてたから。なんか、かわいそうっていうか……」


 自分でもよく分からない感情を、あえて言葉にするとそういうことになる。

 ギターのような、感情を持たないはずのものをかわいそうに思うなんて、自分でもおかしなことを言っていると思う。

 でも、捨て置かれたギターがどうしようもなく哀れだったのだ。

 奏者に捨てられたように見えたこのギター。奏者なしでは音を奏でることができないこのギターが、哀れで仕方がなかった。


「かわいそうって、ギターが?」


 笑われたり呆れられたりしてもおかしくない発言だったと思うが、アオは笑ったり呆れたりすることなく、むしろ真剣だった。


「うん。自分でもおかしなことを言ってる自覚はあるけど、なんか見てられなくて。放って置けないって思ったら、持って帰らずにはいられなかった。それが好きってことならそうなのかもしれないけど、俺の中では好きとは少し違うと思う」

 

 不思議な感覚だった。

 音楽のことは嫌いなはずなのに、アオの青いギターを無視してしまうことができなかったのは、なぜなのだろう。


「そっか。そのギター、奏くんにはかわいそうに見えたか」


 アオは少しだけ目を伏せ、薄く微笑んでいるように見えた。


「それなら尚更。何か弾いてよ。曲が弾けないなら知ってるコードを順番に鳴らすだけでもいいから。じゃないと、でしょ?」


 わざわざ『かわいそう』と強調している。かわいそうだから勝手に持って帰ろうとしたくせに、弾くことはできないのか? と言っているように聞こえる。

 

 ため息が一つ漏れた。

 それを了解の合図と受け取ったのか、アオは顔を上げて嬉しそうに笑った。


「でも、本当にたいして弾けないからな?」


 アオは俺の念押しが聞こえているのかいないのか、「うん、うん」とニコニコしながら頷いた。

 もう一度ため息を吐いて、背中のギターを体の正面に持ち替える。


 ピックがない、と思ったらアオがスッと差し出してくれた。やけに用意がいい。

 

 おそるおそるそれを受け取って、どこも押さえずに六弦から一弦までゆっくりと鳴らす。

 ジャラーンという音が、気持ちよく部屋に広がった。気持ち悪いくらいにチューニングが調っている。


 顔を上げると、アオは目を少し開いて、そして、「続けて」と目を細めた。


 俺が覚えているコードは四つしかない。

 CとGとAm《エーマイナー》。それからF。Fに関しては押さえ方を覚えているだけで、一度もまともに鳴らせたことがない。

 思い通り動かない指をC のフォームで弦に押し当てて、もう一度六弦から一弦まで順番に鳴らす。さっきとは違う和音が鳴った。

 

 C、G、Amの順にゆっくりとコードチェンジをしながらピックで弦を弾く。それなりに伴奏っぽいものにはなっている。

 

 手元を見ながら延々とその三つのコードを繰り返していると、ふいに歌声が聴こえてきた。驚いて顔を上げるとアオが歌っていた。

 

 手元から目を離したせいで音が途絶える。するとアオは、ヒラヒラとギターを弾くジェスチャーをして、続けろと訴えた。俺は慌てて手元に目を戻し、さっきまでと同じように三つのコードを繰り返し弾く。

 

 アオの歌は、歌詞のないハミングだった。俺が弾いているコードはずっと同じことの繰り返しなのに、アオの歌うハミングはバリエーションに富んでいて、鮮やかだった。

 

 ギターを弾く手が止まらない。

 楽しくなっている。ギターを弾くのが楽しいと思ったのは初めてだった。


 自然と、動くままに、ほとんど無意識に、俺は弾けなかったはずのFのコードを押さえていた。

 滑らかに弦を撫でる。きれいな和音が鳴った。

 初めて鳴らす和音が心地良い。


 それから俺は、時間を忘れてギターを鳴らし続けていた。アオの歌に合わせて弾くと、まるで自分まで上手くなった気になった。


 気がつくと雨は止んでいて、オレンジ色の日差しが部室全体を包みこんでいた。

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