第44話 トレウラの名前が出るなんて、ちょっと意外
けれど、何か腑に落ちない。もっと身近なところでその字面を目にしたような気がする。
答えは、ひよりの部屋にあった。
近頃のひよりは、学校にこそ行っていないものの、自分の部屋に籠るということは無くなっていた。以前ほどではないが、笑うことも増えている。いい傾向にあることは間違いなかった。
ひよりの部屋の片側一面を埋め尽くす棚。そこには、本とCDがびっしりと陳列されている。
ひよりは、CDを集めるのが好きだった。そんなひよりにサブスクでも音楽は聴けるし、それで十分じゃないか、と言ったことがある。
「サブスクを、やってないアーティストもいるんだよ。そんなアーティストの曲が聴きたいってなったら、CDしかないじゃん。それに、サブスクよりもCDの方がちゃんとアーティストにお金が入るって聞いた。私がCDを買うことで、好きなアーティストの活動の足しになるなら、私はCDも買うよ。
かつてまだ声が出なくなる前、ひよりはどこか寂しそうに、そんな風に応えた。
そのひよりの部屋の棚に、『Tre Un Line』の文字はあった。いくつも陳列されたCDの一つ。何度もひよりの部屋には入っているが、いつからそこにあったのかは分からない。
「Tre Un Lineってバンド。どうなんだ?」
トレウラの名前を出すと、ひよりは見て分かるほど驚いていた。きっと声が失われていなければ、大声を上げていたに違いない。
ひよりは慌てて傍に置いていたタブレットを拾い上げて文字を打ち込んだ。
『知ってるの!?』
短く簡潔な文。その短さがひよりの驚きを表していた。
「知ってるっていうほどは知らないけど。最近名前を聞いた。うちの高校のOGなんだろ?」
『そっか。奏くん、〈ロックミュージック研究会〉の会長だもんね』
ひよりは、トレウラが俺たちの通う高校のOGだというだけでなく、〈ロックミュージック研究会〉のOGだということも知っているようだった。
「まぁな。トレウラの
『そうなんだ。トレウラが初代なんだね』
「俺は最近まで知らなかったんだが、やっぱり有名なバンドなのか?」
『有名なんてもんじゃないよ。海外のフェスに呼ばれたりもしてたんだから』
タブレットを叩く指が慌ただしい。興奮しているのが伝わってくる。
『でも、まぁ……最近はあんまり名前を聞かないね』
そう打った画面を見せてから、追加でタブレットに何かを打ち込む。
『だから、コアな音楽ファンじゃない限り、私たちの世代で知ってる人、あんまりいないと思うんだけど、トレウラのこと誰から聞いたの? 奏君くんの口からトレウラの名前が出るなんて、ちょっと意外』
タブレットをこちらに向ける手に少しの遠慮が見えた。それなのにどこか嬉しそうに見えるのは何故だろう。
誰から聞いたか、と問われると少し困ってしまう。ひよりには、〈ロックミュージック研究会〉の噂のことは話していない。言えば変に期待をさせてしまうと思ったからだ。
けれど、何かを感じているようだった。思えば、俺が〈ロックミュージック研究会〉の会長になったこと自体、ひよりからしたら信じられないことで、違和感のある行動なのだろう。
「いや、〈ロックミュージック研究会〉のOBOGと会う機会があってな。その時に話題に上がった。それで知った」
訊かれたことにはなるべく正直に応える。
最近のひよりの様子を見ていたら、〈ロックミュージック研究会〉の噂ことを話しても問題はないように思える。だから、突っ込んだことを訊かれたら、素直に応えようと思ったのだが、ひよりはそれ以上突っ込んで訊いてくることはしなかった。
『そっか。興味あるならCD持っていっていいよ。トレウラはサブスクやってないからCDで聴くしかないからね。有能な妹を持ったことに感謝してよね』
タブレットを掲げてニヤリと笑う。こういう風にイタズラっぽく笑うようになったのも、ここ最近のことだ。
「じゃあ、ありがたく借りていくよ」
ひよりが差し出してくれたCDを受け取る。少しの静寂が俺とひよりを包む。
俺が何か話さない限り、二人の間に音は鳴らない。
ひよりは、『どうかしたの?』と言いたげに首を傾げていた。
「最近、調子よさそうだな」
だったそれだけのことを訊くだけなのに、驚くほどの勇気が必要だった。
ひよりの調子が良さそうなのは、家族の誰もが感じていたことだ。けれど、話題に上げることはない。それは、余計なことを口にして、ひよりの様子がまた声を失った当初のものに戻ってしまうことを恐れたからだ。
勇気を持って口にしたが、言ってしまった瞬間から後悔した。せっかく調子が良さそうなのに、俺の不用意な発言のせいでまたひよりが心を閉ざしてしまう。そんな恐怖が一気に首をもたげる。
『そう? 別に普通だと思うけどな』
しかし、ひよりの様子に変化はなかった。それまでと同じようにニコニコしながら、自分の気持ちを打ち込んだタブレットをこちらに向ける。
「そうか。ならいいんだ。CDありがとな」
それだけ言って立ち去ろうとする俺の背中を、ひよりが引っ張った。
『奏くんが音楽に興味を持ってくれて、嬉しい』
タブレットにはそう打ち込まれていた。俺がそれを読んだのを確認すると、さらに何かを打ち込む。
『音楽は、好き?』
「分からないな」
続いてこちらに向いた画面に打ち込まれた言葉に俺は、正直に思っていることを応える。ひよりの望む応えではないのは分かっているが、嘘は吐きたくなかった。
けれど、望む応えではなかったはずなのに、ひよりは、どういうわけか嬉しそうに笑っていた。
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