第48話 それは完全に諦めてしまったものの言葉だった
何もない空間で生気のない、焦点の合わない二つの目が俺を見ている。弾き手の姿は見えないのに、ギターの音がまだ聞こえていた。
「アオ……」
もう、呑気に明るい声を出すことはできなかった。
てっきり、拗ねているだけだと思っていた。ただ、駄々を捏ねているだけだと思っていた。けれど、目の前のアオはそういう顔をしていない。
どういう顔もしていなかった。なにも考えていないような表現。無表情。無感情。空虚。虚無。
からっぽだった。
「お前は、どうしたいんだ?」
からっぽな顔に向けて問いかける。応えを期待したわけではない。それでも訊かずにいられなかった。
俺や
四十年以上前から見た目が変わらない。
突然現れて、消える。
そんな不思議な存在のアオにだって、叶えたい願いはあるはずなのだ。誰かに叶えてもらいたい願いがあるはずなのだ。
俺たちはいつか卒業して、学校を離れてしまう。でも、アオはここに残り続ける。事実、残り続けてきた。残って、また新しくやってきた〈ロックミュージック研究会〉会長の願いを叶える。
今までそうやって叶え続けてきた。アオ自身の願いを置き去りにして。
「俺がお前の願いを叶えてやるよ」
俺の願いは、今も変わらずひよりの声を取り戻すことだ。忘れてしまったわけではなかったが、気がつくとそう口にしていた。
アオの体がピクリと動く。生気のない目に僅かに光が宿った気がした。
「妹さんの声はいいの?」
「よくは……ない」
正直に応えると、アオは呆れたように少しだけ口角を上げた。アオが笑うのを、久しぶりに見たような気がする。
「じゃあ、どうするの?」
「叶う願いは一つだけなのか? 二つとか三つとか、複数叶えてもらうわけにはいかないのか?」
「それはできない。私に叶えてあげられるのは一つだけ」
「それなら、ひよりの声が戻ってお前の願いも同時に叶うような願いを考えるよ」
「そんなに都合のいい願い、あるかな? それを見つける前に、きっと奏くんは卒業しちゃうよ」
「そうなったら、俺が直接叶えてやるよ」
半分ヤケクソになって言うと、アオは目を大きく見開いた。そして、すぐにその目を伏せる。
「そんなこと、できないよ」
「どうして?」
「だって、
「そんなのやってみないと分からないじゃないか」
我ながら無責任な言葉だとは思う。やってみないと、とは言ったものの、具体的になにをどうすればいいのかは全く検討がつかない。誰かの願いを叶えるなんて大それたこと、できるかどうか分かるはずがない。
それに、アオが叶えてきた願いには、超常現象でもなければ到底説明の付かないものもあった。もし、アオがそういうことを願ったら、どうすることもできない。
「無理だよ」
アオは吐き捨てるように言った。そこに何か忌まわしいものがあるかのように斜め下を睨みつけている。必死で泣くのを堪えているようにも見えた。
見ていられない。
声を失った当時のひよりとその姿がだぶった。
「無理じゃない。叶えてやるよ。俺が普通の人間だから無理だって言うなら、叶えられないって言うなら、願ってやるよ。俺がお前の願いが叶うように願ってやる」
ひよりの声を取り戻す。それが俺の願いだ。諦めたわけでもないし、今でも心から願っている。
それと同時に、アオの願いを叶えてやりたい。俺はひよりの声を取り戻したいと願うのと同じくらい強くそう願い初めていた。
痛々しく顔を歪めるアオを見ていると、不思議と冷静になる自分がいた。
ひよりと同じように自分の殻に閉じこもるアオ。
アオは一体どれくらいの間こうして自分の殻に閉じこもっていたのだろう。人知れずひっそりと。ひよりには家族がいた。悠治のように心配してくれる友達もいた。
けれど、アオにはきっと誰もいなかった。
アオの願いはおそらく、普通の人間になることだ。冷静になると、当たり前のように予想できた。
本人が夏帆さんに向けて言っていたじゃないか。普通の人間と同じように、夏帆さんと一緒に歳をとりたかった、と。アオの願いは、そういうものだ。けれど、俺にその願いを直接叶えてやることはできそうもない。
俺がそれを願えば叶うだろうか。
分からなかった。
「夏帆がね、私を普通の人間にしてほしいって願わなかったのは寂しかったけど、仕方のないことだったんだよ」
ポツリとアオの言葉が溢れる。
「世界一のバンドになりたい、それが夏帆さんの願いだったよな? お前は、お前を普通の人間することよりも、自分のバンドが世界一になることを望んだ夏帆さんを恨んでるのか?」
アオはふるふると首を横に振る。
「恨むなんて、そんなわけない。だって……当然のことだから」
それほど夏帆さんの世界一になりたいという願いは強かったということだろうか。それにしては含みのある言い方だった。
「私は、私自身が関わる願いを叶えることができない。それを夏帆は知っていたから。教えたのは私。だから、夏帆は、私を普通にしようとは願わなかった」
自分自身が関わる願いを叶えることができない。アオは確かにそう言った。それでは、俺がいくらアオの願いを叶えたいと願っても叶わないということだ。
「夏帆だけじゃない。今まで誰も願うことはなかった」
アオの口調に力がこもる。
「誰一人として、私を普通の友達にしたいとは願ってくれなかった。私とずっと一緒にいたいとは願ってくれなかった。誰か一人くらい私のことをもっと思ってくれてもいいとは思わない? 〈ロックミュージック研究会〉の会長は願いを叶えることができるって教えたらみんな自分のことばかり」
理不尽だ。
夏帆さんはともかく、他の〈ロックミュージック研究会〉の会長は、そもそもアオの存在こそ知っていれど、実際に会ったことはないという人もいる。それに、アオが自分に関わる願いを叶えることができないことを教えたのはおそらく夏帆さんだけだ。これを理不尽と言わなくてなんと言うのだろう。
けれど、アオにとってはそんなことはどうでもいいことなのだ。とにかく、誰かに自分のことを願って欲しくて、文句を言っている。
まるで駄々っ子だ。やっぱり拗ねているだけなのかも知れない。
あるいは八つ当たり。アオはきっと──
「お前、夏帆さんに願って欲しかったんだな」
俺がそう告げると、アオの言葉は突然止まった。
そして、ゆっくりと応える。
「もう遅いよ」
それは完全に諦めてしまったものの言葉だった。
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