第47話 酷く悲しげで、後ろ向きなものだった

 アオの歌声と乾いたギターの音が、埃臭い部室全体を包み込むように響いている。夏帆さんの弾く青いギターと、アオの声。ここには、それだけがあった。


「歌が……聴こえる」


 唐突に悠治ゆうじが言った。ポツリと呟くように。歌の邪魔にならないように、という配慮が、確かに感じられた。それは、歌声が聴こえていなければすることのない配慮だった。


「うん。アタシにも聴こえるよ。不思議な感覚」


 悠治に続いて井口いぐちさんが言う。

 二人とも耳から入る情報だけに集中しているのか、目を閉じていた。

 俺も二人に倣って目を閉じる。不意に開け放たれた窓から吹き込む冷たい風が、頬を撫でた。その感触が邪魔くさい。この部屋にある音に、アオの歌声だけに意識を向けたかった。


「でも、これって……」


「うん、なんと言うか……。苦しいな」

 

 アオの歌声は乾いたギターの音に手を伸ばしているかのようだった。アオの澄んだ歌声が、少しひずんだギターの音を連れて、俺たちの元に届く。

 澄んだ声にも関わらず、酷く悲しげで、後ろ向きなものだった。聴いているだけで胸を掻きむしられるような、油断すると吐き気を催すような、自分の中にあるどす黒い感情を刺激されるような歌声だった。

 でも、不思議と不快ではなかった。

 

 歌っているのは前を向いて歩き出そう、という前向きな歌詞だ。けれど、それとは裏腹に背中を丸めた後ろ向きな少女の姿が、瞑った瞼の裏に映る。そこに映る少女は、もちろんアオだった。

 

 俺はアオの後ろ姿を見ていた。

 一歩踏み出そうとして、躊躇するアオ。まるで、透明な壁にでも阻まれているかのように、踏み出すことができないでいる。

 何度か踏み出そうとしては阻まれたところで、諦めてしまった。少し俯いたまま棒立ちになっている。


 アオと同じように棒立ちの俺のすぐそばを、白いモヤのようなものが駆け抜けて行った。そして、そのモヤは微動だにしなくなったアオを包み込む。


「アオ。あんたとの約束、音楽で世界一になるって約束、叶ったよ」


「そうだね、夏帆かほ。私もトレウラは、世界一のバンドだと思うよ。嬉しい。本当に嬉しい。でも、嬉しいはずなのに、なんでかな? すごく、寂しいよ」


「アタシは夢を諦めちゃった口だけど、それでも音楽に出会えたことにも、自分の選択にも後悔はないよ。信じられる? あいつ、サウンドエンジニアになるって言ってさ、アタシの音源を勝手にアレンジしてレコード会社に持って行ってるんだってさ。姉ちゃんの歌を世界に発信するんだとか言ってさ。いや〜、参ったよ。配信なんかしたって、アタシはもう人前で歌えないのにね」


「弟くん、元気になったんだね。良かったね、リサ。でもね、リサは歌っていいんだよ。代償なんていらないの。私は代償なんか求めてない。でも、それでもリサが歌わないのは、きっと私のせいだね」


「私は他人の考えてることが分からない。別に知りたくもない、私は私。そういう特性。仕方のないこと。そうやって自分を偽って諦めてた。今なら分かる。怖かった。それだけ。本当は、他人のことをもっと知りたかった」


「そうだね、百合葉ゆりは。自分以外の何かを知るのは怖いよね。私も怖いよ。もう何も知りたくない。私の世界は、ずっとこの部室だけ。外のことなんか知らなくたっていいよ」


「あのまま、母さんの病気が治らなかったら。そう思うと今でもゾッとするよ。きっと、俺は何もかも諦めて、生きる意味も感じられない、しょうもない人間になってたんじゃないかな? みんなとも仲間にはなれなかったと思う」


「教えて、けい。諦めるのはいけないこと? みんなとは違う、生きているとは言えない私は、誰とも仲間にはなれないの? だから、私は……」


「敢えてこう呼ばせてもらうね。月華げっか。私は、あなたを友達だと思っているんだよ、今でも。あなたのおかげで前向きになれた。あなたのおかげで、人との繋がりを持てた」


「そうだよね。千冬ちふゆは、一番私と似ていたね。音楽が、千冬と陽太ようたたちを繋いだんだよね。一人だった千冬は一人じゃなくなった。でも、私は? 私のことは誰が繋いでくれるの? 私は今も一人だよ」


 アオを包むモヤは、次から次へと姿形と声色を変え、アオと対話していた。アオは、まるで拗ねて部屋の隅で不貞腐れている子供のようだった。


「ごめんね、アオ。私、ものすごく後悔してる。あの子の、貫井ぬくいくんの妹さん、ひよりさんの声が出なくなればいいだなんて、どうして思ってしまったんだろうって。私があんなことを願ったばっかりに、アオは責任を感じているんだよね? ごめんね」


莉子りこのせいじゃない。全部私のせい。初めからずっと。また私は一人になっちゃう、そう思って、あなたの願いを叶えたのは私。悪いのは私」


 アオは青山あおやまさんと思われるモヤにそう応えると、それまで背を向けていた体をゆっくりと回してこちらを向いた。


 目を開けると、ギターの音は鳴り続けているのに、弾いているはずの夏帆さんの姿がどこにも見えなかった。

 それどころか、悠治の姿も井口さんの姿も、いつの間にか、ない。部室にあった机や椅子も、窓や、風に揺れていたはずのカーテンも、何もかもなくなっていた。何もない空間に、アオだけがこちらを向いて立っている。

 今ここにはアオと俺の二人だけ。


そうくん。ごめんね。あなたの妹さんの声が出なくなったのも、今も戻らないのも、全部私のせい。もう全部がどうでも良くなっちゃった」


「どうでもよくなったって、どういう意味だ?」


「私が誰かの願いを叶えても碌なことにならない。夏帆が幼い彗河けいがと一緒に暮らさなかったのは、夏帆の世界一のバンドになりたいという願いを私が叶えてしまったから」


 夏帆さんのことを紹介してくれた時の彗河さんの複雑な表情を思い出す。なんとも言えない複雑な表情で、どこか他人行儀に自分の母親のことを語ったのは、一緒に暮らしたことがないからなのかもしれない。


「リサは、私のせいで歌わなくなってしまった。啓は、私のせいで大事な時間を仲間と過ごすことができなかった! 百合葉と千冬は……一人でいた方が良かったんだよ!」


 最初は自嘲気味だったが、最終的にアオは大声で叫んでいた。啓さんまでは、願いを叶えたせいで何かを失ったと言えたかもしれない。それだって、二人が自ら選んだことだ。

 百合葉さんと千冬さんに至っては、完全な言いがかりだった。


「アオ」


 落ち着かせようと、できるだけ明るい声で名前を呼ぶ。

 少し遅れて上がったアオの顔は、驚くほど無表情だった。

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