第46話 そういう映画を外側から見ているような

夏帆かほ……」


 その反応から、アオが夏帆さんを知っていることは明白だった。表情に驚きの色はない。

 まるで夏帆さんが今日、この場所に来ることを知っていたみたいだ。悠治ゆうじ井口いぐちさんがいると部室に現れないはずのアオが、今日に限って姿を見せたのは夏帆さんが理由なのかもしれない。


「アオ! 久しぶりじゃんね」


 夏帆さんの「久しぶり」という言葉は、俺が想像するよりもずっと長い時間なのだろう、とアオの表情を見て思う。

 アオは、夏帆さんに会いたかったのだろう。迷子になった子供が、母親を見つけたような不安と安堵が入り混じった顔を、夏帆さんに向けている。


「しかし、あんた全然変わんないね。比喩でもなんでもなく、言葉どおり、何も変わってない。羨ましいよ」


「そう……かな? でも、全然羨むようなことじゃないよ」


「どうしてさ。ほら、私を見てごらんよ。こんなシワシワの、お婆ちゃんに片足突っ込んじゃってるんだよ? それに比べてあんたは、四十年前のまんまじゃん」


 四十年前。夏帆さんが何気なく口にした年月は、俺が歩んできた人生の倍以上の年月だった。


「私は、夏帆と一緒に歳をとりたかったよ……」


 そう言ったアオの顔は、これ以上にないくらい寂しそうだった。普段の天真爛漫なアオからは想像できない、あまりに無防備で、こちらまで痛みが伝播してしまうような顔をしていた。


「それは、しょうがないじゃんよ」


 悲壮感に溢れたアオに対して、夏帆さんはあっけらかんとしていた。淡白、あるいは冷酷とも取れるような声のトーンで、突き放すようなことを言う。本人にはその自覚があまりないようで、その顔はにこやかだった。

 声と表情があまりにもアンバランスなせいで、不気味さと妙な魅力を同時に醸し出している。


「どうして、私を普通の人間にして欲しいって願ってくれなかったの?」


 アオの言葉は、アオが普通の人間とは異なる何かであることを自白したも同然だった。

 頭のどこかでは分かっていた。その証拠を、目の前に突きつけられたような気分だった。


 嬉しさと悲しみ、両方の感情から、泣き出してしまいそうな顔を向けるアオを見ていると、どうしたって胸が詰まる。


「だって、あのとき、あんたは私たちに世界一のロックバンドになって欲しいって言ったじゃん。それがあんたの夢だって。それは私の夢でもあった。あんたと私の夢だった。あんたと私の約束だった。違う?」


 アオは駄々っ子のようにふるふると首を振って「違わない」と言った。


「それなら、そんなこと言わないの。私たちの歴史を否定するようなこと、言わない。私の他にもたくさん、ロックを愛する子たちが入部してきたんでしょ?」


 アオは今度は首を縦に振る。目の淵にじわじわと涙が浮かんで、一気に溢れ出す。そして、溢れ出す涙を堰き止めるように両手で顔を覆って、うずくまる。

 夏帆さんは、まるで母親が子供に言って聞かせるようだった。


彗河けいがからこの子達のことを聞いて、びっくりしたよ。あんたがまだこの部室にいるって聞いて、驚いた」


 アオはわんわん泣いていた。夏帆さんの声が届いているのかは分からない。


「寂しかったんだろ? 私たちが卒業して、その後しばらく〈ロックミュージック研究会〉は空っぽだった。何年も経ってから、リサや百合葉、彗河たちが入部して、やっと一人じゃないと思っていたら、また途切れて。あんたは、いつしか入部した子は、願いを叶えると離れていってしまうんだ、と思うようになったんじゃない?」


 たった一人で部室で歌っていたアオを思い出す。とても綺麗な歌声なのに、どこか寂しげなアオの歌。ひよりとは対照的な歌声。ひよりと同じくらい人の心に響く歌声。

 何年も一人で。あの部室で。その積み重ねがあの歌声を作ったのだと思うとやるせなかった。


 夏帆さんは、ゆっくりと近づくと、うずくまるアオのすぐそばにしゃがみこんだ。そして、ふわりと柔らかく頭に手を乗せて撫でる。


「ごめんね、気づいてあげられなくて」


 夏帆さんがそう言った瞬間、アオの泣く声は一際大きくなった。

 悠治や井口さんには、きっとアオは見えていない。けれど、夏帆さんの言葉や行動で何が起きているかは理解しているようだった。二人とも夏帆さんの前にいる誰かを必死で見つけようとしていた。

 アオの目から零れ落ちる涙は、板張りの床に小さなシミを作っていたが、二人にはそれも見えていないのだろうか、と場違いなことを思う。


 しばらく経って、アオが落ち着いてくると、夏帆さんはリズムをとるようにポンポンとアオの頭を軽く叩いた。


「アオ、歌ってよ」


 夏帆さんは、立ち上がるなり言った。夏帆さんに遅れて立ち上がったアオは、ジッと夏帆さんを見つめた後で、こくりと頷く。それを見た夏帆さんは、ゆっくりと部室の隅に向かって歩き出す。その先には青いギターがあった。

 いつからそこにあったのだろう。部室に入った時からあったのか。思い出せない。


 夏帆さんは青いギターを手に取って、またアオの前に戻る。迎えるアオはぎこちなく笑っていた。


「曲はどうする?」


 夏帆さんが訊ねると、アオは「夏帆の曲がいい」と応える。まるで部室には二人しかいないようだった。四十年の時を遡ってしまったようだ。そういう映画を外側から見ているような、不思議な錯覚に陥る。とても綺麗で情緒的な映画。

 映画を観て、現実にあれば良いのにと思う時がよくある。二人を見ているとその時の感情と同じものが湧き上がる。


「じゃあ、トレウラのデビュー曲がいいね。私たちがここで初めて作った曲」


 夏帆さんは朗らかにそう言うと、アオの返事を待たずにギターを奏で始めた。

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